やれやれなPCVAN(1)

パソ通の再生はなるか
 文字だけのコミュニケーションであるパソ通。インターネットで類似するものとしてのニューズグループ。技術的にシェアとしてWebが主流になりつつある現在、確実な個人の(笑い)双方向のメディアとしてPC-VANのようなパソ通に未来はあるのか。
 かつては、ニューメディアの花形と信じてパソ通に全時間を掛けていた人々に支えられた2大ネットワーク(Nif&PCVAN)が他の小規模ネットワークの撤退にもめげず継続(97年6月現在)出来るのか、参加会員はパソ通を継続的に利用し続けるのか、ここ数年の課題と言える。
 大きな課題はインターネットが普及するにつれて、有料商用ネットがニューズグループと何が違うのかを明確に出来ていないことで、それが出来無ければ、所詮「別途有料」ニューズグループの行く末は縮小&廃止しか無い。
 やれやれだと思うのは、PC-VANの中のsigであるbooksの6番ボードでの最近のやりとり(#4400近辺から開始)。他人の本名をハンドルネームに利用(借用か?)する是非の論議。小学校低学年のテーマなのだが、この議論の扱いの稚拙がほほえましい。
 強権発動には控訴で対抗するって発言そのものが脅迫的であり、十分法律に抵触しているのだが、本人は気が付いていない。ま、それよりも大切なことは法律違反でなければ全て理は我にあるって考え方で、どうでも良いがネットワークの世界では通用しない論理で一生懸命書き込むよりは、人生別な有意義な時間利用方法が有るってもんで、このあたりが「やれやれな方」な訳です。
 明文化された法律の条文のさらに下位の社会規範としてのモラル、少し上のマナーあたりが視野に入らない論議というのは、見ていても稚拙でほほえましい訳です。

今一度「表現の自由」
 戦後、日教組が教育の現場を仕切っていた弊害に権利の過大な主張が日本人の文化に定着したことがあると常日頃感じている。大阪の幼児虐殺の犯人は公開はされてないが犯行声明を断片的に伝え聞くと、義務教育を「子供が教育を受ける義務」と曲解している雰囲気があるが、SCHOOLの綴りを間違う以前に頭悪いなぁと感じる訳です。義務教育の「義務」とは扶養者に担わされた義務であり、被扶養者にはなんの義務も派生しないのです。それが「教育の義務」である訳です。
 日本語の民主主義に置けるコミュニケーション手法としての欠陥は、自動詞・他動詞の明確に区分けされた表現が無い点ではないかと、日頃思っているのですが、まさに「義務教育」なんかがこの例として上げられる訳です。
 で、やれやれなPC−VANの件ですが、「言論の自由」を全面に主張しての発言に違和感を覚えるとの発言がありましたが、何故、違和感を覚えるのかは感情論的でした。
 これも単純なのです、「言論の自由」は権利として主張するものではなく、「尊重する」ものなのです。ここにも自動詞・他動詞問題が潜んでいるのですが、基本的に言論する側に権利が有るのでなく、聞く側が言論側の暗黙の権利として「言論の自由」を尊重する所に『言論の自由』の構造がはまるのです。
 つまり、両者の暗黙の了解が無い所では「言論の自由」は存在しない構造な訳です。その構造の無い場で権利として「言論の自由」を叫ぶことは、権利の過大な主張であり、空回りな訳で、もちと、このあたり大人の配慮が出来ないものかと「やれやれ」になる訳です。
 戦後GHQが「出版の自由」を称して「言論の自由」と日本語化されたのが、ま、日本語のあいまいさが、「何を言っても良い」まで昇華されるのは、今に始まった事では無いのですが、少し原点に立ち返るべきでしょう。
 日本語の良さでもあり、議論の用語として国際的に通用しない面でもあるのが芭蕉に代表される俳句の文化でしょう。「岩にしみいるセミの声」を英語に訳せますか?、それで国際会議出来ますか?
 当の日本人が日本語に振り回されているのを認識すべきでしょう。「有事」って何だ?「戦争」と表記すべきです。日米ガイドラインは「ウォー・マニュアル」なんですから。大型間接税と消費税のような事を日本人は繰り返している訳です。ま、「わびさび」の世界で社会が動いていては国際的には通用しないって思うのですけどね。
土井たか子の「駄目なものは駄目!」ってのは、日本的であるが反面教師的でもある蘊蓄のある言葉(日本語)で歴史に留めても良い表現だと思うのだが。糸井重里さんでも、このようなコピーは考えつかないであろう。
やれやれなPCVAN(2)

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1997.06.18 Mint