やれやれなPC−VAN(2)

餓鬼が運営するHEIWA−SIG
 ま、インタネットで地方であるPC−VANを語る意味は無いのかもしれないが、餓鬼が統治(笑い)する場で語ってもストレスが溜まるだけなので。
学校の教師と言うのはどれくらい世間のスタンダードと違うかの参考になるのがHEIWA−SIG(JHEIWA)。「自分が守っていないのに、ルールをうんぬんするな」には爆笑してしまった。教室では通る論理なのだが、まさか、それを一般社会に持ち出して説得を試みるとは笑止千万。
この調子で喫煙教師が生徒を指導できるのだろうか。
社会は自分が守れないからルールを主張してはいけないとはならない。ルールは明文化された社会規範であり、皆が守ろうとする姿勢を共通認識する指標である。ある意味では「破る人が居るからルールが有る」と言えるだろう。誰もが守っているものをルールとして明文化するのは意味がない。また、ルールを破っている人間が「ルールを守ろう」と叫んでもなんら問題は無い。井戸端で「馬鹿か、あいつ」と言われるのは当然だが、議会で「あんたは、守っていないから、そのルール制定を主張する資格は無い」とはならない。
建て前と本音、いや、そんな単純な区分けでは無い。
 考えてみるとパソ通や、それに準じるメディアのベースがどのあたりに有るのか、いまだにハッキリ検証されていない。
「個のメディア」であるから発言のスタンスは個人的見解に終始するとは言い切れない場面に多々出会う。この新しいメディアが日本に発足して10年余を過ぎて、どうもパソ通は「社会のメディア」に近づき、一部では既に近づくだけでなく、確実に認知されているかもしれない。私的な書き込みに異論が集中するのは最近のパソ通の傾向として感じとられる。昔は「個」を語る場として違和感が無い事柄も最近は敬遠される。一部初心者がWAKABA者と呼ばれる行為を働くのだが、これすら10年前のネットワーク黎明期には全員がWAKABA者であった経験を持っているはずである。にも関わらず、パソ通は以外と初心者に冷たい(笑い)。
 たぶんパソ通自体がメディアとしては変化の激しいものなのであろう。個々の掲示板での棲み分けでは解決しないパソ通全体のうねりのようなものをネットワークから感じる。
 それは、パソ通が「個のメディア」から「衆のメディア」へと遷移しているからではないだろうか。少なくとも、同人誌の隅のコラムから全国紙の投書欄くらいには変化しつつある。

馬鹿は叩かれる
 書くことにより派生する責任の問題は、学校教育の場でも、社会でも正確にルール(笑い)化されていない。仕切りたがりの大声の人間が発言でき、他は聞き上手で済ます。そのような「日本的協調」制度が通用しないのがネットワークではないだろうか。パソ通とインタネットのホームページの違いは、前者は必ずしもデマンド・メディアでは無く「気に入らなければ見なければ良い」とはならない点であろう。インターネットのホームページは本当に「見なくて済む」(笑い)。がしかし、パソ通のボードではその論理は「見なくて済むように、相手に書かせないようにする」行動に進む。
 考えてみると日本ではNHKの「青年の主張」のように自分の意見を上手に述べる行為が珍重される風土なのかもしれない。ここには「説得」の視点がやや欠けていて、パフォーマンス度が高ければ良い評価が下る方向に進んだ。弁論大会なんかは大声でパフォーマンスをする場でしか無い。つまり、ツッパリの暴走族の形を変えたものである。
 方や西欧ではディベードである。個と個の弁論応酬で決着を付ける。「青年の主張」の主張する側の最大のメリットは馬鹿な事を叫んでも叩かれない点である。主張する側とそれを聞く側に役割分担が明確になっている。
 がしかし、パソ通ではこうは行かない。意見は「世に問う」姿勢が無ければ書けない。なおかつ、書いたことにはフォローアップの責任が付随する。

叩きやすい対象
 パソ通は人数から言えば書き込む人間のパフォーマンスを楽しむ利用者がメジャーかもしれない。がしかし、何時でも自分自身が書き込むことが出来る。そのタイミングは馬鹿叩きよりも問題提起的なタイミングが良いだろう。ただし、書き逃げではいけない。フォローが上手に出来れば、デビューは果たせる。が、逆に返り打ちに遭ってボロボロになるかもしれない(笑い)。
 力量が無い内は、火事場と呼ばれるSYS−OPが馬鹿な場には参画しないほうが良いだろう。ま、HEIWAとかBOOKSとかのSIGは地雷原であるから近づかないほうが良い。ほのぼのSIGとしては、CYCYLEとかGREENがお勧めである。あ、「手前味噌」ってやつだ(笑い)。
やれやれなPCVAN(1)

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1997.10.25 Mint