終戦記念日>もはや完全に風化した先の戦争
ベトナム戦争の頃はリンケージ
1960年代前半のアメリカのベトナム戦争の頃は先の太平洋戦争と「戦争」のキーワードでリンケージしていたが、その後の平和ボケのせいなのか、アメリカが10年毎に戦争を繰り返すせいなのか、戦争とはアメリカの専売特許のようになり、日本の戦争を語り継ぐことも無くなりつつある。
僕は戦争体験を語り継ぐことには反対なのだが、大局的に時代を俯瞰する歴史観に則った書物が最近は出版されなくなった。田原総一郎氏の「日本の戦争」は昭和ヒトケタ世代の持つ太平洋戦争に対する歴史観が解るが、僕から見たら少々考察が短絡的である。
本人の表現方法か僕の読解力の問題か解らないが田原氏は「軍部によるテロへの恐怖が政治家を腰抜けにして、先の太平洋戦争に至った」との結論を導いている。これは日米開戦については言えるかもしれないが(それにも異論があるが)とても戦争の時代であった明治・大正・昭和を俯瞰していない。歴史観としては司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」に近い。考察を開始する時代が遅く、226事件が始まりになっている。シベリア派兵が漏れていては「日本の戦争」って表題に表題負けした内容になってしまう。
終戦の日は、はっきりしてるが開戦は何時?
終戦記念日などと言葉を飾っているが敗戦記念日と言うべきだろう。前にも書いたが野球の「敗戦処理投手」こそ投手を馬鹿にしていると思う。これこそ「終戦処理投手」と呼ぶべきだろう。彼が投げなければゲームは終わらないのだから。そして、勝利チームも勝利が確定しないのだから。
戦後統治の問題もあって終戦記念日は日本がアメリカに忠誠を誓う記念日になっている。つまり「太平洋戦争終戦記念日」に限定されている。あの日から押しつけとは言え平和憲法の下、国権の発動たる武力の行使を行っていないのだから、明治からこのかた全ての戦争を対象に「終戦記念日」を考えてみたらどうだろう。そこで始めて「敗戦記念日」では無く、大きな意味での終戦記念日なのだって歴史観が沸くのではないだろうか。
で、全ての戦争と言っても元寇の役まで遡る必要は無いだろう。では、どのあたりが新終戦記念日で扱う戦争に範囲とすれば良いだろうか。
1894年(明治27年)の日清戦争あたりだろうか。この戦争が何故起こったかを考えるとさらに10年程先の1884年あたりだろうか。実は明治以降の日本の戦争は後で書くが領土の獲得と経済進出を目的としたものだった。豊臣秀吉の朝鮮出兵もこの目的だが、以後鎖国により海外派兵は行っていないので、やはり日本の戦争とは「領土と経済の拡大を目的の海外派兵」と位置付けて良いだろう。逆に、この定義によれば今回のイラク派兵、国連軍参加は「戦争」と定義されなくなる(異論もあるが)。
とすると1855年の幕府が蝦夷地全域を直轄地とした時が始まりでは無いだろうか。実に太平洋戦争終結の90年前である。
1855年以降のあゆみ
箇条書きに日本の戦争の時代をまとめてみたい。
1855年 幕府が蝦夷地全域を直轄地
1860年 咸臨丸米国へ(日本最初の軍艦による太平洋横断)
1864年 下関戦争(英米仏蘭の四国連合艦隊が長州藩攻撃)
1866年 薩長同盟
1867年 大政奉還(明治維新)
1890年 教育勅語発布
第一回帝国議会開催
1894年
日清戦争
1902年 台湾県民を日本に編入
1904年
日露戦争
1906年 南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立
1910年 韓国併合(伊藤博文ハルピンで暗殺死(09))
1913年 東北、北海道で大凶作
1914年
第一次世界大戦
1917年 ロシア革命
1918年 ドイツ降伏、第一次世界大戦終了
1921年 原敬首相暗殺
1922年 ワシントン会議で海軍軍縮条約に調印
1923年 関東大震災
1925年 普通選挙法(男子)成立、治安維持法発布
1927年 第1次山東出兵
1929年 世界恐慌
1930年 東京駅で浜口首相狙撃
1931年
満州事変、柳条湖事件
1932年 満州国建国を宣言
1933年 日本、国際連盟脱退
1934年 東北地方大凶作
1937年
蘆溝橋事件、日中戦争勃発
1941年
太平洋戦争開戦(米英蘭)
1943年 学徒出陣
1945年 日本無条件降伏
とまぁ、これだけ見ると田原総一郎氏の「日本の戦争」の原因が軍部によるテロと横暴(あまりにも短絡的な国民感情)を裏付けたように見えるが、実は上記のニュース項目に漏れているものがある。意図的にもらしたのではないが。
1918年8月からのシベリア派兵から第一次世界大戦終了後の世界勢力地図の再編成の波に日本が飲み込まれる。しかも、各国軍隊の近代装備に触れ、加えてシベリアに派遣されたアメリカ軍の軍備の貧弱さに触れて、今まで国内中心の陸軍が大陸侵略を指向するきっかけになった。
日本も第一次世界大戦後の再編成で国力を増大させようと以後の27年間のきっかけになった事件だった。
前に書いたが元三重県知事の長洲氏が講演会で「何かが起きるには原因になる事が十数年前に起きている」と語っていたが、まさに、歴史の流れは10年単位に因果が巡ることになる。
事象の裏を読まなくては戦争は理解できない
あえて、上記の年表に農作物の凶作を入れているのは戦争と経済は国民生活の表と裏であり、日本の特に農村部出身者が多い陸軍の意志決定に農村の窮状が反映してくるからだ。
ここ「言いたい放題」のページを良く読んでいる人には繰り返しになるが、僕のこの90年間の流れは日本の近代化と世界の近代化、覇権主義、植民地主義の大きな人類の歴史の流れの中で形成されたとの歴史観を持つ。そしてそれは、日本の経済の発達のために必要な「政策」でもあった。戦略は正しかったが戦術が間違っていたと認識している。
西欧諸国がわりと簡単にアフリカを植民地化し東へ東へのと手を伸ばしてきてアジア東方に至って、アメリカとぶつかった場所がたまたま日本だった。そのため、西欧諸国は中国にまで手を出したが日本は植民地化せず緩衝地帯として残した。しかし、アフリカ、東南アジアと違い日本は積極的西欧化に邁進し、やがては緩衝地帯が火種に変わってしまった。
当時政治はイギリス、ドイツ、フランスを手本とし、鎖国で遅れた分カルチャーショックも大きく、どん欲に技術、手法を吸収した結果日本は急激に西欧諸国に追いついてしまった。
その痕跡を今でも実生活で見ることができる。それは東西の電力の周波数の違いだ。東は50ヘルツ、西は60ヘルツなのは東京がドイツ製の発電器を輸入し、関西はアメリカ製の発電器を導入したためだ。全国規格なんか考える時間の余地が無かったのが今の時代まで続いている。鉄道も新橋に最初の鉄道が走ってから10年で東京から青森まで鉄路は延びた。この急速さは今では考えならない。まさに、文明開化の嵐だったのだ。
国民相互の感情の中で「圧倒的な差は尊敬に通じ、微妙な差は憎しみに通じる」との名言がある。日本は圧倒的な差で西欧に憧れ、追いつき、(何故、同じ事をやってはいけないのだ)という憎しみに変化していった。
日本人の立場に省みれば、五味川純平氏の「戦争と人間」がこの時代の流れを良く著してると思う。経済の発展には何が必要かと考えると、当時の時代は大陸への進出以外にたいした選択肢は無かったのだろう。今の時代はデジタル家電のように経済の発展には技術の向上が必須となるのだが。
アジアでは、21世紀を迎えた今でも自国で設計製作した戦闘機で西欧と戦ったのは日本だけである。この技術力で対等の考え方が(工業力では対等では無いが)が植民地主義からの脱出の時代に入っていたアジアの各国の独立の原動力に繋がっていく。ただ、日本が太平洋戦争終了後に選択した「現地引き揚げ」は日本の一人勝ちの原動力もなった。もし、時代の流れを読むことがアジア各国にあれば、日本人の引き揚げでは無く、日本人街を作り技術移転を目指せば国の近代化はよりハイテンポで進んだであろう。
そのような大きな時代の流れ。つまり、アジア地域の世界での位置付け変動の時代に日本の明治維新があり、日本の戦争が必然的にはまっているのだ。人類の歴史の中で東南アジアが植民地時代から独立へ、そして民主主義へと進む流れのなかで日本が良いにつけ悪いにつけ「日本の戦争」って形で必然的に組み込まれたって解釈するのが新終戦記念日制定にふさわしいのでは無いかと思う。