映画「ホタル」、まだ満足出来ない仕上がり

終戦の日が近いからテレビ放映
 結局、映画館で見逃してレンタル・ビデオを待っている間にテレビで「ホタル」が放映された。後でジックリ見ようとビデオに収録した。かなり期待していたのだが仕上がりとしては「いまいち」と思う。時代がそうさせたのか先の戦争を描けるほどに人々の記憶が残っていないのだろう。だから、先の戦争を描いた映画からは時代劇を見ているような遠い昔の時代を感じてしまう。
 この時代が自分達が生きる今とつながっているのだって実感が沸かない。それは見る側の問題では無くて作る側の問題なのだと作品を見て思った。
 たぶん「あの時代を描き残したい」って情熱が製作スタッフに薄いのだろう。本来なら「駄目出し」の部分がそのまま作品に収録されている。ある意味「手抜き」が散見される。これは映画を作る情熱まで薄まっているのかと危惧する。これが高倉健最後の映画にならないことを願う。
 前回の「鉄道員(ポッポヤ)」は駄作だったが、今回のホタルは歴史に残るまでには仕上がっていない。高倉健の映画のランクとしては「幸せの黄色いハンカチ」を越えてはいない。「駅」のように玄人受けを狙ったものでも無い。
 でも、やはり「いまいち」なのだ、中途半端と言っても良いだろう。映画の作り手の情熱が伝わって来ないのは高倉健一人の責任では無いが。

田中裕子に助けられている
 「おしん」の陰が見えかくれする作品だなぁと苦笑する。NHKの朝ドラの「おしん」で最初の子役を演じた小林綾子、その子供時代の話しが終わって青春期から田中裕子に役者は変わるのだが、ほとんどの人は小林綾子で培った盛り上がりが後退すると思っていた。3人の女優が演じる「三代のおしん」だが音羽信子から小林綾子への画面の切り替えは未知数の子役への期待が有ったし、中村雅俊の死を通して反戦って明確なテーマ性も有った。当時の田中裕子の演技は未知数であり、とてもここまで時代を描ききり盛り上がった「おしん」に耐えられないと思われていた。
 しかしB型の粘りなのか、ヤオハンの創設者であるおしんのモデルを強さと優しさの二面性を織りまぜながら演じていく。NHKの多彩なゲスト役者(たとえばガッツ石松とか)の配置は不要で一人の強い女を演じていた。世間が田中裕子に接し評価を高めたのはまさにこのテレビドラマ「おしん」だったのだ。
 その小林綾子も「ホタル」に出ている。
全体が田中裕子プロデュースの雰囲気に感じるのは、戦争を背負って死んだ男達とそれを見守った女達のドラマだからしかたが無いのかもしれないが、やはり平成になって殉死に近い形で亡くなった戦友が居たがその孫、食堂の「おかあさん」の奈良岡の孫、に女の子では無くて男の子を配備してもらいたいかった。そして、高倉健と語る場面を用意して特攻に行く者達の心情を強く出して当時を再現する手法を使ってもらいたかった。
 このあたりが「いまいち」の原因かもしれない。小沢征爾の息子の演じる朝鮮人が日本の軍人として神風として特攻に行く必然性の説明が皆無、ホタルに成って戻ってくる場面も当時は日本の一部であった朝鮮って事と巧く絡んでいない。

戦争は「嫌なもの」「避けたいもの」では無い
 反戦とか非戦とか最近叫ばれてるが、武力を行使して人を殺害するだけが戦争では無い。人と人が集団で暮らしていれば必ず争いが起こる。争いって用語が不適切であればゴタゴタって表現でも良い。人間には「自己」があり、それが他人の自己と対立するのは当たり前だ。その時に集団を離脱する(人間の社会的生き方を捨てる)か対立を調整するか、どちらかしか選択肢は無い。
 戦争は常に大なり小なり有るもの。それを防ぐには「戦争は根絶出来ない」と割り切って事にあたるべきだろう。平和憲法を制定すれば戦争を世の中から無くせるなんてお花畑の幻想は持たないことだ。
 広い意味での戦争は学校でのイジメ、仕組まれた殺人事件、はては「日本ハム商品撤去」なんて訳の解らない集団リンチにまで散見されるのだ。
 人間として生きていくためには「戦争」とは避けて通れない関係に有る。その自覚を持つ事が大切で正面から受けとめる事を逃げてはいけない。往々にして正面から受けとめる事を回避する平和論がまかりとおっている。本当の平和論は戦争を否定するのでは無く、存在を認め、いかにそれを治めるかの観点に立脚しなければならない。
 と、こんな事を書いていたらNHK教育テレビ(今はETVと言うのかな?)のNHK人間講座(これって、ネーミングが凄くないかい)で「終戦の日記を読む」って講座が開設されていた。メインは野坂昭如氏である。あの歴史に残る「火垂るの墓」を書いた人である。僕は私小説でも書いているが野坂氏の「作家は時代を代弁しなくてはいけない」って精神に深く同調する。その野坂氏が「日本人は戦争って何かを知らなかったのではないだろうか」と語る。この一言は重たい。
 結局、武力行使は目的が有って、目的達成の後に終息に向かう。この部分への考察がまるで無くてアメリカと戦争を初めた。野坂氏の妹は戦争が終わった8月15日以降に餓死してこの世を去る。これは「火垂るの墓」に描かれている。野坂氏自身も9月に本土決戦なんて事態になれば戦って死ぬのでは無く餓死していただろうと語る。
 いかに当時の指導部が戦争を解っていなかったか、これが今回の番組で野坂氏が訴えたい事柄らしい。
 実は8月9日にプロジェクトXのプロデュサーの今井彰氏の講演会に参加した。この内容は別途書く積もりだが(酷評になる予定)、この講演会で今井氏は「明確なテーマを示さないプロジェクトは成功しない」と語った。まさに先の戦争には明確なテーマが無かったのだ、後追いでテーマを作ったのだ。
 五味川純平氏の「戦争と人間」はこのテーマ無き侵略戦争を経済にテーマを位置づけている。これは当たっているのだろう。経済はテーマを必要としない。金勘定だけの世界だから。株式会社なんてのは資本家が選んだCEOの「代理戦争」なのだ。株主のための代理戦争だ。そんな資本本位制経済が日本に芽生えた頃の戦争だったのだろう。だから、軍隊を後押しした経済界が旗色が悪くなって手を引いた後で誰も軍隊の暴走を止められなかった。ある意味で「勝手に戦争やってれば」ってのが不幸な昭和18年〜20年だったのではないだろうか。この間に亡くなった方は、まったく「時代が悪かった」としか言いようが無い。がしかし今生きている我々はその歴史感覚を持ち無能な指導者が国民に犠牲を強いた歴史を繰り返してはならない。

死することの意味
 もう57年も過ぎてしまった。我々の世代ではまだ太平洋戦争を理解できるが今の若者に「お約束」みたいに8月15日が近づくと、儀式のように受け継いで良いものだろうか。僕か生まれ育った小樽市ではお祭が多くて5月の末の招魂祭が口火切りになる。30年前にはお祭の出店に混じって傷痍軍人ってのがいて寄付を得ていた。白衣を着て松葉杖をついて、片手が無かったり、片足が無かったりする人々が祭の出店に混じって立っていた。
 この傷痍軍人の行為を「もう戦争は終わったんだ」とか「乞食みたいことを辞めろ」とか群衆の中から抗議する(イチャモン付けかな?)者が居たりした。そんな光景が僕の戦争「後」体験である。でも40年も前の話しだ。先の野坂昭如氏は「世界の何処にも「戦後」なんて無い」と語っている。二度と戦争が無いと思えば「戦後」は存在するだろうが「戦争は無くせない」と考えれば全ては「戦前」なのだ。その野坂氏の考え方は含蓄に富んでいる。
 昭和生まれが人口の50%を越え、先の戦争を体験している人間は少なくなり、それでも語り継ごうとするのは流れに逆行していると思う。逆に現代はもっと「死」について語る必要があると思う。その中で兵器として使われた生命って観点から特攻を考える視点が生まれてくるのではないだろうか。
 史実を誤った内容には怒りを憶える。この映画でも「特攻は日本だけの行為だった」と語られてるがドイツにも有ったのだ。ただ、違いは戦線が狭い関係もあるのだが特攻の時に放送局は戦士に届くように放送を通して激励の音楽を流し続けた。ドイツでは「ラジオを聞きながら特攻した」と書いている本が有るが、これは完全に誤解だ。国民もライオを聞いている周知の状態で「今、若者が死んでいく」って状態だったのだ。これは残された者から見れば日本より悲惨だったのでは無いだろうか。
 前も書いたが「特攻」は「特殊攻撃」って戦術なのだ、何故か「特別攻撃」になってしまったのは日本人の言葉遊びだ。日本語のあいまいさが一番出ていると思う。アブノーマルな戦法なのだってことが、選ばれた戦士による特別な高貴な攻撃に置き換えられている。そこに日本人の国際社会からの糾弾である「あいまいさ」の指摘があると思う。
 人間が飛行機の高度計と同じように部品として考えられたのが「特攻」である。それは最後の選択肢であった。技術も工業力も無い当時の日本では人間を自動制御の部品として使うことしか無かったのだ。それは技術の敗北である、だから、戦後敗北を期した面々が工業生産技術でリベンジしたのだ。
 今回の「ホタル」で描かれた「当時」は、もはや再現出来ないほどの「過去」なんだろうか。そんな事は無い。ただ、映画がそれを出来ていないだけだ。そう思いたい。
 我々は何を失い何を得たのか。それは朝鮮半島に渡り謝罪するって事では無いと思う。「戦争を受けとめる姿勢」が国際社会から軽んじられる程弱いのが日本だ。戦争下手が「戦争撲滅」を叫んでも国際社会では餓鬼のたわごととして扱われるのだ。その事が解る日本人が殆ど居ないってのが戦後57年目の結論なのだろうか。
 映画は娯楽だと思って見たいのだけれど、「ホタル」はこんな事を考えさせられる。それ自体「失敗作」の証明かもしれない。ただ「戦争を描くときには、戦争に対するスタンス(立場)を明確にせよ」ってのが僕の感覚だから、より厳しく「ホタル」を評価したい。

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2002.08.16 Mint