NHK番組改変>組織が抱える問題点が噴出
嘘情報を信じた朝日新聞の問題点
事実関係を整理するのが趣旨なので、別に朝日新聞社を弁護するつもりは無い。朝日新聞の「誤報」と決めつけることはできない。ただ、結果として、限りなく誤報に近い報道を行った朝日新聞は逆に「嘘情報を掴ませて陥れる」攻撃には弱い体質をさらけ出したことになる。
マスコミが公器たるためには、最低限、真実を報道しなければならない。その意味で中川昭一経産相が故意に嘘情報をつかませたと言うよりは、取材記者が自分の中で出来上がっていた事実関係(真実とは違う)を迫り、中川昭一経産相を激怒させ言質を引き出したと、およそ真実に迫る取材力を発揮しなかった取材方法に問題があろう。この手法は法定で弁護士が反対尋問を行うときに使う手法で、ジャーナリストが誘導尋問的取材を行うのはいかがかと思う。取材とは事実関係を調べるものでは無く、真実を調べるものなのだから。
「事実と真実」、これは用語を吟味しなければならない用法の最たるもので、意味は全然違う。真実はあるがままの事象で、何故そうなったのか人間には理解できないような事柄でも実際に起これば真実。事実は人間が納得できる出来事の起承転結。だから、裁判では事実関係と使うが、真実関係とは使わない。そもそも真実は起承転結も納得できる合理性も何も含んでいない、ただ、起きた現象のようすだけだ。
取材とは真実の情報を収集し、集まった真実に考察を加えることで事実関係に迫る行動。だから、今回の朝日新聞の記者のように先入観から「中川ならNHKを脅して番組を改変させるだろう」って取材しては、今回のように結果として「嘘を掴まされる」。(先入観があったかどうかは憶測の域を出ないが)
そもそも、番組で扱われた「日本軍性奴隷制を裁く『女性国際戦犯法廷』」の主催者はNGO「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」で、当時この団体の代表は元朝日新聞記者の故松井やより氏(2001年12月死亡)であり、この関係から同番組への朝日新聞の関心が高かったのかもしれない。
また、取材が真実の情報収集の積み重ねであれば、長井暁氏の話とNHK幹部(取材もとを朝日新聞は明かさないが)の話の真実だけ取り出せば、NHK内部で起こっている事に目が向くのがジャーナリストの感性だろう。
『事件は国会で起きてるんじゃない、NHK内部で起きているんだ』(c)踊る大走査線
朝日新聞をもてあそんだNHK職員
コンプライアンス推進委員会(法令順守委員会)に提訴と言うか内部告発した長井暁氏の記者会見を見れば海老沢勝二会長憎しで伝聞情報を根拠に「NHKってこんなにヒドイ所です」と言っているだけだ。中川昭一氏、安倍晋三氏の名前を出すだけの根拠に乏しい。しいて言えば上司の「泣く子と政治家には勝てない」程度の言葉から「番組改変の事実」を組み立て、中川昭一氏、安倍晋三氏に辿り着いたのだろうか。
どちらにしても、40過ぎた報道に携わる人間の良識としては首を傾げざるを得ない。なぜ、誰から聞いたかが言えないのか。言わないことにより自分が情報を捏造していると疑われるリスクを感じなかったのか。感じなかったから記者会見に望んだのだろうが、本人の会見の様子からは、何処かの政治団体の声明を聞いているような雰囲気しか感じなかった。
また、朝日新聞の言う「NHK幹部」は本当に存在するのか。朝日新聞が「NHK幹部」を捏造する可能性はゼロとは言えないが、そこまでやると朝日新聞にとって致命傷なので、ここでは居ると仮定して話を進める。ただし、長井暁氏そのものとの疑惑は隠せないが。(追記:その後、「私が朝日新聞が番組改変の取材したNHK幹部だ」ってのが現れて記者会見をしたが、これも取って付けたような対応で説得力は無かった)
この「NHK幹部」は正直、番組改変の事実をおもしろおかしく編集して朝日新聞の記者をもてあそんだのだ。以下の数点がこの「NHK幹部」から取材されている。
1)両政治家に呼びつけられた。
2)中川氏からは「放送を止めろ」と言われた。
3)異例の局長前試写
あたりだろうか。この3点は朝日新聞ですら取材で聞くまで知らない事象だ。そして1)は真実は分からないが事実として予算編成時期に訪問に、2)は事前に会っていないのに「止めろ」は無い、3)はNHKから「別に異例では無い」と反論されている。
実は、上記3点については朝日新聞は正確な取材により真実の裏取りを怠っているのだ。「NHK幹部」からの聞き取りで自分なりの事実関係を構築し、これを裏付ける取材を行っただけだった。そして、これが先入観の色眼鏡がかかっているので、真実にたどり着けなかったのだ。
安倍晋三氏は本人の談によれば「番組改変は微妙な問題なので、後日解答したい」と自宅に来た取材記者に答えてるのに12日の朝刊に勇み足で掲載されたそうだ。結局「NHK幹部」からもてあそばれただけなのだ。当の朝日新聞が18日の朝刊のような「全て伝聞情報ですが、我々は嘘は言ってない」的な弁解に終始し、決して反論できないのがその模様を語っているだろう。
NHKの体質が生んだ黒船待望論
ま、海老沢勝二会長が長期政権過ぎるとか、政治部出身で政治家、特に自民党寄りだとか批判は内部にもそうとう鬱積しているようだが、元来それはNHKって「コップの中の嵐」。それを、自助努力することなく、外部の朝日新聞の記者を利用して番組改変をネタに組織改革を行おうって発想そのものに当事者意識の欠如が見られる。
「NHK幹部」が存在するかどうかに関わりなくNHKの「コップの中の嵐」と認識しなかった朝日新聞の感性にも問題があるが、やはり、自らの力で改革出来ないNHKを印象づけたのはNHKにとって大きなマイナスだろう。逆に海老沢勝二会長が辞めにくくなったってのが大方の見方ではないだろうか。「改革に目処を付けて退陣」と言っていたのだから、まだまた改革しなければならない事柄が有るってことを印象づけたのだから。
巨大長期安定政権は何時か壊れる。戦後60年を経て我々が見直さなければならないのは今まで是とされた事柄が今後も是では無いってことだ。社会保険庁しかり、自民党政権しかり、NHKしかり、三菱(ふそう)自動車しかり、山一証券しかり、北海道拓殖銀行しかり、ダイエーしかり、UFJ銀行しかり。これらの組織は時代が変化しつつあるのに適合出来ずに滅びていく恐竜と同じなのだ。
小泉純一郎首相は、ある場面で「進化して行かなければ生き残れない」と語ったが、ま、ダーウインの進化論では無いが、前例世襲、リスク回避で何もしない、このような組織は恐竜と同じでやがて滅びてしまう。(ま、ダーウィンの進化論を僕は必ずしも肯定していないが)。
NHKに朝日新聞の言う「NHK幹部」が居るとして、これは閉塞感で行き先を模索している絶滅寸前の恐竜が今のNHKだって証左だろう。居ないとしたら、朝日新聞が絶滅寸前の恐竜なのだが。
コップの中の嵐をコップの外に持ち出した組織は遅かれ早かれ絶滅する。実は、自民党が何故戦後長期政権を担えたかと言うと「コップの中の嵐」は決してコップの外に出さなかったからだ。戦国時代から続く政権とりの争いで後継者にスムースに政権をバトンタッチ(コップの中に留める)した政権が連綿と続いてきた歴史の事実を見ても分かる。
朝日新聞って黒船に番組改変事件を託したのでは、現政権(海老沢勝二会長体制では無く、日本の放送界のドンであるNHKそのもの)が失われるってことで、これまた明治維新の歴史がその教科書である。
ETVの斬新さが勇み足になった
教育テレビの使命は元々日本全国均一な教育の普及にあったと思う。1959年の放送開始だ。その意味で「日本教育テレビ(現テレビ朝日)」とか、限られた資源である電波を国民のために使うために総放送時間に湿る教育番組の時間を規定して放送免許を許可していた時代があった。1964年には日本科学技術振興財団テレビ局(東京12チャンネル、現テレビ東京)が開局してる。
その時代背景の中で教育テレビは1998年頃からETVを全面に出して学園ドラマの制作も手がけ放映してきた。現在でも「六番目の小夜子」、「いちご同盟」、「翼をください」等々僕は変わるETVのフアンである。しかし、歴史を描かせるとNHKって集団はなんともお粗末になる。「歴史への探訪」は推理小説的な歴史の描き方で歴史観がまるで無い。現在の「そのとき歴史が動いた」も報道番組的である。プロジェクトXも最近の番組は國井さんが泣かない所から分かるように完成度は落ちている。報道になっている。
そんなNHKが教育テレビで戦争犯罪を扱うことは斬新な冒険であっただろう。ただ、本来NHKは報道が主たる責務だ。逆にドラマ等は外注の制作会社の作品に見るべき者が多い。電波に乗せる機能だけNHKが果たしてるのが望ましい方向だった。何故、NHKが戦争犯罪を扱うのか。ボタンの掛け違いは2001年の番組制作にGOを出したときに始まっている。企画内容はNHKエンタープライズ21が担当したらしいが、ここには制作の企画は有ったが放送番組として公器であるNHKが担うべき責務って観点が抜けてる。もっとも、制作企画会社なのだから、その観点は必用無いのかもしれないが。
同じ戦争を振り返る番組では2003年の同じくETVの番組である人間講座で野坂昭如氏が「戦後は無い、何時もが戦前」と蛍の墓作者らしい戦争観を語った番組もあるのに、どうも、戦争を裁くなんてのは歴史観の無い若造にはアンタッチャブルなジャンルに背伸びしてガラガラガッチャーーンと崩壊したのだろう。
どうも、番組そのものに問題があるって主張が正論に思える。実際には見ていないが、そもそも放送に耐えうる番組だったのか、今、国民の前にノーカット版を再放送して、判断を国民に委ねるのがNHKの改革の第一歩だろう。