統一地方選挙に見る制度の限界

選挙は終わった
 投票は終わったと我々市民側に立って話すのが良いのかもしれない。
僕の投票は「4票2敗」だったが、道議会議員には的確な候補が居なかったので「投げ票」で和田氏に入れたので意志有る投票で結果に結びついたのは札幌市会議員の「高橋ひでのり」氏だけであった。後は「死に票」なのだから虚しい。
 まず「高橋ひでのり」氏について書いておこうかな。僕は通勤に地下鉄の発寒南駅を利用しているのだが、ここの地下鉄駅に昨年の10月くらいから拡声器1個で立つ若者が居た。これが高橋ひでのり氏である。札幌の地下鉄駅は政治活動の要なのだが、昨年の10月からここに立つ彼を僕は共産党の候補者だと思っていた。
 共産党が地下鉄の駅を押さえる前に彼は街頭に立っていたのだ。そうそう、僕が「彼は」と呼ぶのは彼は33歳で若手なのだ。見た目は本当「今時の軟弱な若者」なのだ。
彼の親戚筋の高橋忠則の後援会に付き合いで登録したのだが、彼が共産党候補で無いのを知ったのは、叔父の後援会に加入した時だった。選挙戦が始まって何度か地下鉄の駅で挨拶していた。日に焼けた顔にたくましさを感じた。ただ、僕は彼を直接的に支持していない。未知数のモヤシなのだ。そのモヤシに市議会を託すしか無いのも問題だが、そもそも市議会って必要無いのでと僕は思う。年寄りの名誉職以外の機能が札幌の市議会に有るのか。それを検証するために若者を支持したのだが、この若者も何処まで出来るのか未知数だ。
ただ、10月から拡声器1台で地下鉄の駅前に立った「初心」を忘れないで欲しい。まだ33歳、これから勉強することは山ほどあるが、同様に雪の日に立った街頭と、それを支援した仲間の事は一生忘れないでもらいたい。彼は叔父よりも高順位で札幌市議に当選した。

選挙制度は民意を反映していない
 すごい矛盾なのだが投票率が下がって一部の「投票者」だけで政治が決定されてる姿を「民主主義」と呼べるのだろうか。主権在民では無くて主権投票者、過激に言えば政教分離すれすれの公明党が組織票をもって選挙を左右している現状を「民主的選挙」と呼べるのかってことを誰も気にしていない。
投票に行かない層が居るのは「しかたない事」なのだろうか。その「しかたない事」を切り捨てている間に公明党なんて宗教団体的な組織が議員を生み出しているのだ。これは選挙制度としておかしいとは誰も言わない。それが僕にとって不可解なのだ。
選挙に関心の無い層を切って、選挙に異常な関心がある宗教団体を保護するのはいかがなものか。選挙に関心の無い層を無くさなければ日本の民主主義は滅びるぞなんて言っている国会議員は居ない。そもそも、選挙制度は国会議員にとってタブーで昭和20年台からほとんど替わっていない。「地盤・看板・鞄」の選挙制度で当選して来たのだから、自分が当選した制度は最高の制度なのだ。だから、投票率が下がればそれだけ公明党頼りの選挙になってしまうのだ。いや、公明党頼りの選挙によてますます市民は政治か遠のくのだ。民主主義の1制度としての選挙制度は公明党によって歪められてる。これを是正しなければ早晩、選挙制度による独裁国家に日本が陥るだろう。ヒットラーは選挙で選ばれたことを忘れてはならない。
限られたそれも宗教団体的な組織が支援し、蓋を空ければ北海知事は高橋氏だったりするのだが、その面に触れるマスコミは少ない。「高橋はるみ」は政治に関心が有る北海道市民の30%以下しか得票してないのだ。先に書いたように革命でも起こらない限り、既存権力は2%しか支持率が無くても政権の中核で居られるのが現在の選挙制度なのだ。それ故に、今の選挙制度を見直さなければならないってのが僕の主張なのだ。「選挙で投票しましょう」てスローガンと全然違うのだ。このままの選挙制度では民主主義は守れないと言いたいのだ。
 小沢自由党党首も勘違いしていると思うのは、選挙は数の論理では無くて、論理の戦いなのだって制度の基本的精神。自民党時代に選挙に強い小沢と呼ばれたのは「数こそが結果」って分かりやすく意味の無いのが彼の主張だった。「数は結果だが、主張は結果に左右されずに残る」くらいの感覚が小沢さんに無いのかと僕は思う。
同じ論理の候補者が多数立候補して個々の候補者の違いが明確にならなかったのが札幌市長選挙が再選挙になった原因だろう。基本的に僕は札幌市長選挙について書くつもりは無い。僕に近い関係者が候補者に居るって事では無くて、札幌市長程度では国政を変える力は無いと思うから。
国政を変えるには旧来の利権政治をいかに崩すかなのだ。それを全面否定出来るほど札幌って都市は度量が無いと思う。そもそも、そんな判断を求められる組織では無いのだ。「面倒なことは道庁へ」って感覚が地方自治体として自律してない札幌の象徴なのだ。

選挙に問題が有ると言えば
 「数を集めた物は代表である」って考え方はどうなんだろう。なんとなく「体力勝負」の世界の感覚に感じるのだが。僕は情報がインタネで沢山得られる現在、地方自治に限って言えば政策なんて選挙のための作文で、候補者絞り込みのよりどころでは無いと思う。
 予算からして経常的費用である職員の人件費が半分を占めるのだから予算に特色を出すにしても規模は限られる。本来地方自治の組長に求められるのは効率的な役所経営なのだ。何故なら我々は組長選挙で地方自治行政のトップを選ぶのだ。同じく議会議員選挙で立法の代表を選ぶのだ。この地方自治の2枚看板を理解していない組長候補者が多いのは何故なのだろう。(だんでだろぉお、なんでだろぉおと叫びたくなる)
 役所をいかに効率的に運営するか、それが選挙の公約につながるべきなのだ。「アメリカのイラク武力攻撃ゆるすまじ」なんて街頭で叫んでいる共産党候補者はおいといて、それぞれが「こんな札幌市にしたい」なんてビジョンを描く。これって違うぞ! こんな札幌市にしたければ行政は立法って手段を踏まなければならないのだ、だったら市会議員に立候補するべきなのだ。
 その意味で徹底的に札幌市役所を叩き続けた中尾氏は2位といえど組織に頼らずあれだけ集票したのだ。ある意味自民党に個人が勝ったのだ。鈴鹿8タイで言えばプライベートがワークスを下したって絶賛ものなのだ。もっとも中尾氏の発言に「行政の長」って意識は無い、ただ、咬み付いただけって印象がいなめないのが2位って結果だろう。
「菅直人的な」者は2番なのだ「小沢一郎的な」者が1番を得るのだ。その意味で中尾氏は2番が最高位なのだ。
 普通、行動の前に何に向けての行動かって規範が有るはず。ダラダラと「いつもの統一地方選挙でんねん」なんて言ってるあいだに、目的を見失ってきたのだ。恐いのは役所のやる「選挙」なので前例世襲主義で何時までも選挙するんだなぁ。
 もう余計な制度は構造改革しよう。地方議会はバッサリとゼロ定員(地方の立法は都道府県で面倒見る)。組長は行政のトップとして経営責任を追い、毎年の株主総会に準じる役場の経営指数開示で市民の続投かどうかの是非を問う。否決なら組長選挙を行う。
国の制度の焼き直しみたいな地方自治制度では駄目で、独自の「立法では無くて「行政制度」を作らなければ駄目なのだ。
 アー(笑い)、札幌市長選挙の話しも書きたくなったので、次回に書いて置く。

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2003.04.12 Mint