民主党、自由党合流
自民党側のコメントが面白い
「政策が異なる政党の合流は野合だ」ってのが結構多い。この「野合」って言葉を使う見識に首を傾げるのだが、マスコミも女性アナウンサーも気にせず口にする。ま、言葉は生き物だから今の時代には「野合=野党が合流すること」みたいな意味で使われるのかもしれないが、原意を辿れば「はなはだ不適切な表現」なのだが、この点は誰も指摘しない。まったく、日本語って使う者のご都合で解釈される言語なのだろうか。絶対的表現が出来ない言語なのかもしれない。
話は逸れるが寿司のネーミング。近年のスシブームでアメリカにもスシバーが広まっているがメニューの名称はKAPPA(キューカンバー&ライス、ラップドwithノリ)となっている。つまり新しい名詞でカッパ巻を記述しても説明責任を問われるので具体的に食材を明示している訳だ。鉄火巻はブルーフィンフイッシュ&ライス、ラップドwithノリとなる。誰にでも解ると言うか、アメリカでは同じ物を指していると誰にでも解るために言葉は具体性を持って使われている。だから英語圏では昔NHKがやっていた「連想ゲーム」は出来ないと留学生が言っていた。
ところが日本語は過去の鎖国による閉鎖的文化土壌のおかげなのか「岩にしみいる蝉の音」を理解できる。科学的に考えれば松尾芭蕉の時代にはテープレコーダが無い訳で、岩に音を録音することは出来ない。今の技術のmp3データをramに書き込めて更に再生出来て「岩にしみいる」なのだ。だが、そんな事は日本語では問われない「岩にしみいる」でセミの声を越えた情景描写と解釈されるのだ。
話が逸れたが、言葉を大切にするってのは伝達を正確にするってことで、心情的にどうとでも取れる用語を使って表現するなら、それこそ俳句を一句読めば良いのだ。最近の政治家の発言は「俳句的な」発言が多い。ま、小泉首相もその一人だろう。
無粋な話だが大相撲での貴乃花の優勝で「痛みに耐えてよくがんばった、感動した!」てのは「俳句的な」なのだ。そこには負けた武蔵丸への配慮も何も無い。一国の総理大臣の器なのかなぁと思ってしまう。
「野合」では無くて「窮鼠猫を噛む」
危機意識が無いと言うか、天下泰平と言うか、自民党の反応はマスコミからコメントの形で伝わってくるが、危機意識が無い「親方日の丸」が自民党に浸透している現状が解る。
小沢一郎氏が何を考えているかを読むのは難しい。何故なら我々には政治の世界の経験が無いしそれに加えて政権の中枢で活躍した小沢一郎氏の経験は知る由も無いからだ。ただ、言えることは普通政権の中枢に入った人間がそこを離れる要因が有ったってことだろう。あまり邪推を重ねたくないが「自民党的な」って部分に自らが目指すものと違った匂いを感じたのだろう。ま、金丸的支配に限界を感じたのだろう思う。か、金丸氏と個人的に何か有ったか。
政治は利権と表裏一体なのが今の日本の政治制度だが、これは「与党でなければ金にならない」って政治の世界を作ってしまった。もちろん、立法府である国会と執行部署である行政は分離されるべきなのだが、ここが日本の制度的欠陥なのだ。
「自民党的な」ってのはまさに、立法府が行政府に圧力をかけられる制度なのだ。だから、この構造を改革するには政権交代しか無い。日本の「三権分立」は未だ完成していないのだから、これを一歩でも理想にむかうために政権交代が絶対的命題なのだ。そのために、野党合流が必要なのだってのが小沢一郎氏の考えだろう。
自民党から見れば敵はイデオロギーを越えて集団で攻めてくるのだ。批判ばかりしていると足元をすくわれる。
ますます追い込まれた小泉政権
難しい判断だが基本的には「自民党政権倒せ」勢力の結集と見える場面だろう。本当は政権交代なのだが敵は「自民党的な」って部分だ。だから微妙な表現なのだが民主党の菅代表がはからずも言っている「民主党に小泉氏の席を用意しても良い」なんて発言につながるのだ。自民党が壊れる、これが最大の政治テーマなのだ。このキーワードで小泉首相と自民党は揉めて、野党は深慮遠謀を必要とするのだ。
我々国民としては真実が明らかになるのが最大の民主主義だが、基本的に願うのは「小泉再選&解散総選挙、そして政権交代」だろうか。どうも「解散総選挙」の時期が読めないのだが、マスコミは年末選挙を既定路線にしている。選挙と言えば浮き足立つのが政治家はその時期に合わせて選挙対策を行う。その行動が逆にマスコミによって「年末選挙必須」と流れる相乗効果を生み出している。
ここの前段の考察が必要だと思う。小泉再選(があるかどうか別にして、仮に有ったとして)の形式が年内解散総選挙の方向を決定するだろう。絶対的勝利で再選されたら解散総選挙は無い。薄氷を踏むような再選なら解散総選挙だろう。小泉頼みの候補者を支援して小泉シンパを沢山作り長期政権を狙うことができるからだ。
逆に野党は乾坤一擲のチャンスを得るためには小泉再選が薄氷を踏むほうが良い。反小泉までも野党に引き込めるわけだから。このあたりの政治判断がこれから面白くなる。
合流に対するマスコミの企画力の無さ
日曜日を中心に「政治番組的な」と呼ばれるテレビ番組は多い。毎度同じ岡田民主党幹事長と藤井自由党幹事長を前にコメンテーターの質問は「民主党と自由党は主張が違うのに、それを越えて合併できるのか」ってワンパターン。「主張が違う」と決めてかかっているのがなんとも稚拙でこの質問を発するかどうかが番組の企画力のバロメーターになる。(あ、死語に近いですが「バロメーター」ってのは気圧計で、まだ衛星写真なんか無かった時代に台風を含めて低気圧の動きを各地の気圧計の測定値を集めて予測していたのです。だから、バロメーターってのは予測指標って意味です。本当に死語になってるなぁ)。
番組的に藤井幹事長は丁寧に答えているが、僕から言わせればそんなゲスな質問には一言で良い。
「自民党は180度意見が違っても存在している。民主党と自由党は60度くらいしか意見が違わない。その質問は自民党に持っていくのがジャーナリズムの使命じゃないの。ベクトルが180度違ったら何も起こらない。だけど60度のベクトルを合わせれば方向が定まるんですよ」と言えば良い。
はじめて「野党的な野党」とは違い、与党を目指す野党が発祥したのだ。我々が投ずる票が政権に結びつくって体制が整備されたのだ。社会党が日本の政治を50年遅らせたと僕は思っているのだが、その呪縛が「炭鉱閉山、国鉄民営化」によって解き放されたとしたら、北海道に住む僕にとって複雑な心境である。
180度違う人間たちが「政権」の利権で寄り集まっている集団と、60度違う人間たちが「政権」目指して寄り集まっている集団のどちらが我々国民にとって望ましいのかは自明だと思う。それくらの危機感を持たなければならない自民党は「コップの中の嵐」に忙しいようだ。