政治問題>増税と地方切り捨てで保身する官僚

保身と言うより利権保持
 初めてこのページを閲覧する人には解りづらいけど、僕は一貫して国の運営を担う行政府が立法府である国会の延長線上にある今の制度は国民本位の民主主義から見て欠陥があると考えている。
 地方自治って制度は太平洋戦争に負けて押し付けられたアメリカの州制度に起因するのだが、基本的に合衆国と日本では地方自治と州制度には矛盾が多すぎた。そのため、中途半端な地方自治が始まった。で、しかも、それを修正もせず60年も続けていたのは何故か、僕には良く解らない。
 結局国家てのは日本で一番大きな経済団体なのだと考えるか、国家は民間が出来ない分野の公僕(社会機能の補填)だと考えるかの違いだろう。国が産業をリードする機能を持つことにより日本の経済成長は成し遂げられた。そのまま、ずっと続けていても良いのだが、日本の常識は世界の非常識、企業は国際競争の中で国の保護により活動していては公正な競争とみなされないでバッシングを受ける。このあたりが顕著化したのが1980年代の日米自動車貿易摩擦だろう。
 この時に国(行政)主導の経済運営は国際標準に合わないとの認識で、民間に任せ国の機能は国民の公僕としての機能に絞り込むべきだったのだろう。極論すれば国の行政としての機能は外交と軍事のみで、他は地方自治に移管すべきなのだ。市町村単位が難しければせめて都道府県レベルに移管し、現在の国家公務員も移籍する。それくらいの行政の改革が必要だったのが実は25年前に時代が変わった時の方向だったのだ。
 ところが、あいも変わらず国(行政)が税金を財源に飽食三昧で、いったん召し上げた税金は国民のためでは無く自分たちの好き勝手の財源にしている。そんなことは無いと反論する官僚に問いたい「投資対効果」の評価基準があるのか、それを公表しているのかと。税金の使いっぱなしで国の財政的経営を悪化させ、その修復のために国民に請求書を書き換えて回しているだけだろう。
 で、霞ヶ関って大阪城や江戸城すら凌駕する城を築いて来たのだ。残念ながら巧妙に徐々に60年かけて行って来たので、国民は徐々に慣らされ、それが日常と勘違いしてしまった。実際には現代は江戸時代となんら変わりはないのだ。
 家老が官僚に変わっただけだ。江戸城が霞ヶ関城に変わっただけだ。

東京馬鹿蔓延はマスコミの責任
 テレビも新聞も同じだが、現在のマスコミは東京主導で地方を地道に扱っていない。視聴率も東京での視聴率で、人口の少ない地方でいくら視聴率を上げてもスポンサー契約には結びつかないって営業方針が露骨だ。
 そのためか、巨人OBと日本ハムOBの交流試合が札幌の札幌ドームで行われた。これって、読売新聞の北海道購読者掘り起こし営業以外の何者でも無い。いまさら野球を使ってと思うだろうが、読売新聞には野球しか残っていないのだ。
 先の大阪城、江戸城につぐ霞ヶ関城だが、目先に利権が無ければ決して城の外に出ない。北海道購読者掘り起こしなんて目的があるから巨人OBが札幌で野球の交流試合をするのであって、そこに利権拡大の思惑が無ければ別に城の本拠地からわざわざ地方に出かけることはしないのだ。だから、地方は直接霞ヶ関城が動いたときは警戒しなければならない。ま、その最たるものが年金事業団のグリーントピア事業だろう。事業誘致のために接待に踊った地方自治体の職員の数は多いだろう。
 日本は結局「霞ヶ関城」を中心に動いている。だから、商業報道各社は霞ヶ関城を 取り巻いて情報を入手する。もちろん、瓦版から派生した新聞は置いといて、電波を使う放送事業については霞ヶ関城は家老を配置して利権を確保した。もう、瓦版のように好き勝手はさせないぞってことだ。
 情けないのは「バスに乗り遅れてはいけない」って商業マスコミの宿命なのだが、瓦版屋がこの軍門に下って営業の手を広げた。考えてみると、新しいメディアは当らしい業界に解放してこその新たな利権なのだが、巧妙に既存マスコミに傘をかけたのだ。ここまで支配の手を広げる官僚ってのはシタタカな訳だ。
 結局、日本の事柄は全て東京で決まる。地方の実状よりも東京の意向で物事が決まる。そんな東京一極集中は元を正せば立法府の機能が弱体で行政主導で国の行く先が決まっているいままでの政治家の意識の低さと、議院内閣制による官僚との癒着に端を発していることは何回も繰り返し述べた。

中央集権の先にあるのは地方の衰退
 都市への人口の集中は生産効率を高めGNPを高める。これは間違いない。昭和30年代の日本の所得倍増計画を支えた生産性向上は「集団就職」に見られる人口の都市への集中の結果であった。後先を逆に考える向きもあるが、高度成長したから都市に人口が集中したのでは無い。その実例が、今の中国の大都市形成と経済成長、加えて、都市と農村部の所得格差の拡大だろう。所得格差の拡大こそが、生産性の違いを現している。
 では、都市集中は国の成長に必然であり、地方の衰退は、これまた国が成長する上で必然なのかと言うと、実はそうでも無い。ここに本来政治が占める立法を通した国土の均衡な発展が計れるのだが、日本はそれをしてこなかった。
 日本が一番不得意にしてきたのが「政教分離」ならぬ「政経分離」なのだった。政治と経済がある時は政治主導で経済が、また、あるときは経済主導で政治が動く仕組みが当然とされてきた。前者は現在の政府の経済対策であり国会で「商品券の発行」なんて経済政策を政策の目玉にしているのだからやれやれな訳だ。後者は僕の歴史観なのだが、五味川純平氏の描く「戦争と人間」のバックボーンだ。経済発展のために新たな市場を必要とした経済界に操られて大陸に「進出」したのは経済主導で政治が動いた例だろう。
 明治維新からの「富国強兵」政策で政治と経済が表裏一体だった時代を未だに国の制度の中に引きずっているのだ。本来、経済の中心と政治の中心が同じ地点に無ければならない必然性は無い。「政経合致」の場合のみ同じ地点で重なり合う必然性があるのだ。で、今の日本はまさに「政経合致」状態だったのだ。
 最近、東京を離れてトヨタを代表企業とする「東海経済」って地域が注目されている。設備投資ひとつ取っても東京近郊よりも伸びが大きい。つまり、トヨタを核に経済を中心にした地域が出来上がりつつあるのだ。
 結果としての「東海経済」だが。そもそも「国土の均衡ある発展」のためには政策として「政経分離」を大胆に行うべきなのだ。今の中央集権は「政経合体」なので、残るものは何も無く、地方の衰退を必然化してしまっている。

地方自治も甘い汁期待では住民不在
 実はこの「政経合体」が顕著なのがいわゆる「公共事業依存体質」と言われる北海道の構造にもなっている。札幌一極集中は過去の東京一極集中と同じ構造の中で必然的に形作られた。公共事業依存で無い会社も人口の集中に合わせて札幌に進出して生産性を堅持する必要がある。地方の信金の支店がやたら多い現状で解るだろう。
 ここから、東京と地方の日本の構造から、札幌と地方の北海道の構造に話を移す。先に述べたようにその構造的問題点は同一なのだから。
 現在の構造が何故出来上がったかを知るのは容易だ。どの程度溯るか別にして過去に目にみえる課題が存在したのだから。余談になるが小学校の頃のいわゆるドリル問題の国語で「「そのことについて」の「その」は何処にあるか」って問題の答えに、「その」より先を探して答えていた友人が居た。「今まで出てきた中に有ったから、繰り返ししないで「その」って書いてあるんだろう」と言うと「「その」って指差す先じゃない。後ろにあるなんて思わない」って話をした記憶がある。
歴史に学ぶってことがまさに「その」が何処にあるかって命題なのだ。地方活性化なんて論議持たれ何とか委員とかの名称で呼ばれたりするのだが、答えは未来に有るみたいな考え方が蔓延している。これ、すなわち、統率力の無さが顕在化した事象なのだ。答えは過去から導き出されるのだ。
 それは「政経分離」。国の行政機能を極論すれば外交と防衛に限定する。他の行政機能は地方に任せる。そのための第一歩は国家公務員の地方への移籍である。役人の常套手段で仕事を増やせばそれ以上に職員を増やす。いわゆる「パーキンソンの法則」で仕事自体を自ら増やすのだ。だから、地方への権限委譲には平行して国家公務員の地方への移籍も語られてしかるべきなのだが、現行の国家公務員と権限委譲された仕事をこなす新たな地方公務員でこの国を運営していくらしい。
 まったく、霞ヶ関城を支える江戸時代の農民か、わしらはぁ!
で、具体的な地方切り捨て対抗策を考えているのだが、これは連載で次回のテーマとする。リンクは貼っておくが、ページ完成には数日の余裕をいただきたい。

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2004.11.28 Mint