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新しいメディア、デマンド
誰も使いこなしてない、と最初に極論を言っておこう。このインターネットもそうだけど、過去のマスメディアが利用方法を思いつかないメディアとしてのパソ通、インターネット等々が何に使えるのか、いまだに彷徨を続けている状況だ。根本的に「デマンド型」に求められるものは何かが未だに明確に読み切った論が出ていない。先に書いたようにCaptainが何故成功しなかったのかは、このデマンド型メディアとは何かの知恵が無かったからで、この知恵は未だに人類に付いていない、と再度極論を言っておこう。 有る意味ではデマンド型はメディアで無いにもかかわらず既存のメディア産業が手を染めすぎる弊害が出ているのかもしれない。その意味ではこれらのデマンド型のメディアこそ、現在の延長線上に無いまったく新しい「ニューメディア」なのかもしれない。 最近はロボットの名称はあまり使われない。一つには自動制御が進み、自らデマンドを発行しなくても機械が全て行ってくれる技術背景があるだろう。わずか100年前では人間を補助する機械(ロボット)は考えられてもマイコンを内蔵した、自ら考えて動く完全自動制御に近い機器は想像できなかった。故に人間の指令を忠実に実行するロボットがSFの中で描かれた。 現実には、アポロ衛星の頃から、オペレーターは不要で人間はモニターに徹する方法無くしては月に到達出来ない、そんな時代が始まっている。 話をメディアに戻すと、ラジオ・テレビのマスメディアに代表される過去の100年は、情報については後進的であり、看板が音を出し、動く域を脱してはいない。1方向が標準であり双方向は必要性の有無も含めて検討されていない。マクルーハンはラジオを「民族の太鼓」と称したが、まさに、このマスメディアは、より効果的な大看板でしか無かった。歴史的経緯を振り返ると、ラジオは民族の太鼓として戦争に集結し、テレビは平和に集結した、かもしれない。この間に、人類はメディア本来の「伝達」よりも「広報」に「看板」に慣らされてしまった。 ここの、有る意味では根元的メディアであった「双方向伝達」がテクノロジーの新旧は別にしても、復帰してきた事によるとまどいが発生している。 指示を待っているロボットに出すべき指示を持たない人間の組み合わせと言ったら現状を的確に表現しているのではないだろうか。 |
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