情報化教育は世代に合わせて

小学校のインターネットページ
 なにやら岩手県でも、小学校の教師が生徒を扱ったホームページに掲載不許可の指導が入ったとか。(朝日新聞による)
 同様の事が1年ほど前に東京都でも有った。そもそも、インターネットのホームページに掲載すべき情報は自らの情報であり、他人の褌で自分のホームページを作っていけないってのは常識なのだが、これについてはここでは触れない。ま、リンク集程度までは容認されるが、家族の写真だとか、恋人の写真だとか、はたまたペットの写真だとかは、本人の承諾が有ろうが無かろうが、あまり見ていて楽しいものでは無い。何故ならば、そこにインタラクティブ性(双方向性)が保証されない個人のメディア掲載は好ましいとは思わないから。
但し、自ら撮影した写真なんかを掲示物として扱うのはさほど気にならないが。
 あえて、人格形成とネットワークについて、特にそのインタラクティブな機能の利用について語ってみたい。
 情報処理技術は読み書き・そろばんと同じ基礎技術であろうか。読み書きは情報伝達の手段として必要であり、そろばんは量を量る意味で手段として必要である。しかし、情報処理技術はその両者(と言うか、基礎的な情報交換技術)の上に構築されるものである。
 何故、義務教育の後半の中学校から英語の授業があるか。教育の現場での現状ではなくて、理念としてならば、世界標準語の「読み書き」が出来ることにより情報処理技術範囲を他言語にまで拡大する手段としての「読み書き」収得ではないのか。
 上記の例に則して説明すると。義務教育にある世代は、社会での情報処理に必要なツールを完備しつつある世代と位置づけられる。この世代にいきなり「インターネットのホームページでの情報交流を」って企画が、そもそもおかしい。ましてや、教育の現場が、もっか習練中の子供に情報化を教える矛盾に気が付いていないのが今の教育の閉塞性をあらわしていると思われる。
 何故なら、先の例で示したように、英語教育の一環として外国に電話して情報を集めろと言っているのに等しいからである。外国に電話して情報を集めることができるように、英語を学んでいる者に対して、即実践では教育の自己否定にほかならない。即実践が可能なものをカリキュラムに組み込むコンセンサスは何処にも無いのだから。
 カリキュラムに「話し方」が無いのは、まさに、実践しか無いからであり、カリキュラムに組み込めるのは、基礎トレーニングが必要な物に限られるから である。
 小学生、中学生の社会性未発達の世代がインターネットを利用して何を得られるかは、逆にインターネットを知る我々からは疑問である。(そうでない人の反論を期待するが)。先に述べたようにインタラクティブに情報を交換するには、それなりの自我の発達が必要と思われる。昨今、パソ通では、この自我未発達な人間が目に付く。インタラクティブな世界で、自我未発達は致命傷である。また、面と向かって会話ができれば、年齢にふさわしい対応も可能であるが、ファイス・トゥ・フェイスが出来ない、電子ネットワークでは互いの自我未発達度を推し量る術も無い。

学校教育では高校生から情報処理教育を
 長い人生、確実に年齢と経験は蓄積されていく。まして情報処理とは、昔から人間が行ってきたコミュニケーションによる自己啓発であって、近年たまたまコンピューター(も)利用可能になってきただけのことである。しかも、コンピューターは道具であり、必要があれば操作を覚えれば良いのであって、会社からリストラ勧告を受けたくないからコンピューターを覚える。試験に出るからコンピューターを覚えるといった「不純な」(笑い)動機で覚えても何の役にもたたない。
 多くの人から啓発され自己を確立していく世代は、小学校・中学校では、まだ一部分であろう。いやいや、人は一生を通じてこれを行っていくのだろう。なにも急いで、百鬼夜行のネットワークに出る必要は無い。まして、自我の発展途上の時期にインタレクティブなネットワークを利用する必要は無い。まだまだ未知なものが回りに溢れているはずである。
道具教育の遅れ現象
 ポケベル、PHS、FAX、親が経験しなかった道具が若年層に浸透している。個のメディアとしての各機器は決して望ましい使い方がされているとは思われない。テレクラの携帯電話は言うに及ばないが、公共の場で大声で長時間携帯電話を利用するとか、コンサートで鳴らしてしまうとか、およそ社会性として、どうなのだろうかと疑いもしない、配慮もしない使い方が若年層に広まっている。バスに乗車中に携帯電話で長々と会話するのが何故いけないのか、明確に説明できる大人も少ない。しいていえば「みっともないから」、「迷惑だから」。
 違う!。公の場と私の場の分別を付けるのが社会なのだと、何故言えない。
電話はプライベートなものである。先の表現では個のメディアである。これを音声を発して公の場で使うのは、他の公の場の人々に失礼である。何故なら、公の場の人々に私を聞かせることは、公衆の面前で裸になるのと同じ迷惑行為なのだから。
 上記の携帯電話の使い方を見るにつけ、社会的未発達人に情報機器を扱わせるのは、沖縄の家庭の包丁である(基地外に刃物)。
 これを、読んでいる人の中で年齢18歳未満の人は、すべからくインターネットを止めなさい。インターネットで得る以前に、人生に大事な事は回りに溢れている。18歳未満の子供が携帯電話を持ち歩いている人。ただちに止めさせなさい。公の人格勉強中の子供に私の壺に隠ることを止めさせなさい。
 小中学校で設置のホームページに掲載されている人。即刻掲載を中止させなさい。将来有る者にとっては無駄なプライバシーの掲示は百害有って一利も無い。

Back
1997.05.23 Mint