高齢化社会と情報化社会

高齢化社会と情報化社会
 長嶋茂雄60歳のシートノックを今年(98年)の春にみてショックを受けた。昔の60歳はたとえ監督であっても自らバットを握って選手にシートノックはしなかっただろう。それは、監督と言う立場の解釈にもあるだろうが、基本的に60歳というのは現役を離れ隠居の年齢であった。
ショックを受けたのは、体力面と精神面両方からである。「元気な年寄り」とは、まさに、長嶋茂雄のように現場でやれる現役年寄りのことである。
加齢と体力の衰えは人間とて他の動物と同じであるが、人間は個人差が大きいと思われる。ボケ老人について言えば、頭を使う人生を過ごしている人はボケ無い。政治家が80歳でも現役なのはこのあたりが関係しているかもしれない。社会との接点が有るうちは人間は勉強を続けざるを得ない。これを、ソーシャル・プッシュ・プル(社会との駆け引き(spp)と呼ぶことにする)
人間は何故生き続けるのか、はっきり言って解りません(笑い)。がしかし、上記のsppが人間に生きる意識を生じさせる根源ではないかと思うのです。「人間は社会的動物である」と言うことが、人間はsppを無くしては生きて行けないと同意語だと思もわれるのです。
で、実はこのsppである「社会の窓」はテレビによってなされるのが日本の今の状況なのです。年寄り世帯が社会との接点を持つにはテレビによる情報収拾が大変重要な機能を果たしているのが事実なのです。
最近のワイドショーは放送側が気づいているかどうか別にして、主婦向けから老人向けに視聴者は変化しているのです。主婦は昼間パートで不在の時代に、昼間は主婦向けのメロドラマとワイドショーって感覚ではテレブのマーケットリサーチはどうなっているのかと疑ってしまうのです。
興味の有る事柄の情報が入手でき、自分なりに若干の判断余地があり、しかも、明日には新事実によってあらたな展開が始まるかも知れない。これはスリリングであり、社会との接点(spp)なのです。

高齢者を社会から隔離する時代では無い
 農耕社会であれば肉体労働生産性の尺度から老人は生産性の低いカテゴリーに分類され、飢饉の時などリストラの対象とされてきたが、現在の情報化社会では肉体労働生産性なんかは問題にならず、知的労働生産性に社会の価値観が変化している。アルビン・トフラーの「第三の波」は厚くて読みにくい本である以前に、情報化社会が全ての年齢層に何をもたらすかの視点が欠如していると思う。社会が大きく変革する時代は、実は資本本位社会では消費者、つまりマーケット・ニーズが時代を変えて行くのであって、テクノロジーが時代を変えて行くのでは無い。その視点がトフラーには無いので、一過性のベストセラーで終わってしまったのである。
松下幸之助の「21世紀の日本」のほうが、ボケ老人の発想で面白いかもしれない。この本を読むと何故松下幸之助が松下を「ナショナル」と命名したか解る。結局、資本本位的共産主義が彼の思想に潜在的に有ると言うことだろう。
話が逸れた。
「人間は社会的動物である」を一歩進めて「人間は情報を糧にする地球唯一の生物である」と言い換えたい。マスメディアが隆盛を極める現代は、マーケットがそれを支えているのは紛れもない事実である。その中で情報の発信者であることは、労働生産性と違った新たな社会的価値の尺度となる。

知的生産とは何か
 人間が地球上で他の生物と違うところは、情報伝達手段(例えば、言葉であり、文字であり、印刷技術等の媒体技術)を用いて、本来1世代だけで経験を通して学習することを「伝承」出来る点であろう。正直言って、1世代、おおむね30年違うと、得られる先人からの情報は倍加していると思われる。少なくとも我々の世代では情報教育が無かった故に、2進数なんて高校の授業でしか習わなかった。しかし今は中学校で学習している。
国が決めた「教科書」でしか学べないことは無い、今のように情報伝達の手段が多様化した時代に情報の伝達はその手段(新聞、雑誌等)の問題からその情報源の問題にシフトしつつある。インタネットから得られる情報がマスメディアの伝えきれない個々の項目に及んでいるのは、インタネットユーザなら体験済みであろう。
自ら語るものには自ら伝える道具が用意されているのである。これはグーテンベルグが印刷を情報伝達の手段として形成した時代に匹敵する情報に関する革命である。
ここで大切な事は、個々の人間が他人の手を(編集者とか)を経由しなくても情報を発信できる事実である。つまり、経済原則の違いにより今までは営利の波に乗らなければ流れなかった情報が、その制度の枠を越えて個々人の自己責任で流通可能になった時代に我々は生きていることを、この文章を読むことが出来るインターネットユーザは実体験していると思う。
つまり、知的生産性とは個々人が持つものであり、個人の地位、地域、境遇に左右されず、帰属社会の経済制度にも左右されない(インフラ整備には左右されるかもしれない)ものである。それを使うかどうかも、これまた自己の責任の範疇である。

個々人が伝承の核
 わずか数100年前の人々の暮らしの現代への伝承は文字を書ける階層の独善であった。戦後の義務教育の良い点は文盲の廃絶であった。誰でも活字(文字)によって他人の考えを伝え聞くことが可能になった。しかし、これは世界的に見れば特異なことで、文字が読めない集団は多い訳で、その意味での文字以外の表現力を持つマルチメディアが期待されるのである。
情報とは不思議なもので時間が経過すると意味を失うものもあれば、時間を経過して意味をもつものもある。不確かで早いデーターと確かで歴史有るデータが情報化値が高いものと言える。
その意味では、現在形で書き留められた情報は未来に意味を持つ。今はあまり価値が無いかもしれない。にもかかわらず今書き留めておくことは重要であろう。
何時は、野坂昭如氏が「作家は時代の代弁者たらなくてはならない」と発言してる。昭和20年に戦争が終わったあと数年の庶民の生活は、実は正しく伝わってこない。印象記憶の部分で、着物を売って米を手にいれたとかが伝わってくるが、今の時代と比較すべき「家族の生活」が伝わってくるものは少ない。ジュディオングが出演していた「グーチョキパー」のテレビドラマが、最初に戦後の苦しさから抜けて、文化に関心を持てる時代の¥最初の伝承であろうか。
実は、衣食足りない時に残される情報は少ない。文化は社会が安定し、パトロンが現れる経済構造が現れなければ発生しなかったのが過去の歴史である。 しかし、現代は社会経済がどうであれ、そこに生きる個々に個人が情報を発信することにより歴史を刻むことが出来る。最後は情報を発信できない人間はその人生を歴史に刻むことが出来ない。そこまで、数年の内になるであろう。
自費出版なんて自己満足ではなく、自らホームページで情報の発信を目指すべきであろう。また、それを補佐するコンピューター操作のボランティアが今後生まれて来るであろう。

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1998.10.25 Mint