「ドラマ」のジャンル作ってもいいのかなぁ
既にお映画化されていたドラマを再度ETVが作成した「いちご同盟」を前に書いたが、同じく再度ETVが作成したドラマである。やはり長寿番組の「中学生日記」の土壌があるのか、なかなか見せるドラマである。
なんせ、今年の連休まっただ中の5月4日、5日と1話30分を集中的に放送するものだがら12話全部を再度見てしまった。「再度」と言うのは生では通しで見た事は無いので一部中断しながら見ていたのだ。全編を再度欠けることなく見た感想として「六番目の小夜子はいちご同盟と双璧だな」って感想。
ミステリアスなドラマだけれど、不安定な青春初期の中学生の心の動きを描くのに成功している。ただ、現実に当事者である中学生にとっての外圧であるPTAとか教育委員会とかはまったく出てこない。これは実社会では不自然なのだが、ま、ドラマ故の一部の背景のネグレクトを容認しておこう。
ストーリは、三年に一度現れる「小夜子伝説」である。その小夜子が何をするのかは代々語り継がれているって想定。実際、中学校で語られる伝統的噂がテーマになっている(このドラマの詳細を紹介する気は無いので、ビデオ等を探していただきた)。
かねてから思っていたのは、「四角い教室で四角い机に向かう」ことが学校なのかって事。どうも、長寿社会ってのは、大人になるのに時間が掛かるのかもしれない。中学校を舞台の描かれている事は高校と比較してなんら遜色は無い。ただ、義務教育である「中学校」って背景が必要な場面は多々有る。
淘汰がされている高校は「多様な人格」って面で弱い。ガリ勉なんてのも中学校を背景にするからこそ描けるキャラクターなのだから。この多様な個性が攻め気合うのが中学校だろう。高校では学校単位で見ると、実は生徒は多様化しておらず、画一化していると思う。スクールカラーと言えば聞こえが良いが、実は集団による個性の画一化が行われた結果が高校なのだ。その意味では中学校を描き続けた「中学生日記」が長寿番組なのはうなずける。もし、これが「高校生日記」であったならば多様な社会現象を表す事は出来なかっただろう。
昔会社が札幌の中央区の土真ん中に事務所を構えていた頃、通勤にバスを使っていたのだけれど、このバス路線は私立高校である山の手高校と道立札幌西高校の生徒が利用するバス路線であった。そのため、バスの中にも両校の生徒が混在している。山の手高校の生徒の会話は「昨日のドラマ見た」であり、西高の生徒の会話は「朝まで勉強したけど、なんか試験自信が無いなぁ」であった。正直言って、面白味に欠ける。
両者とも校風に流されて、本来教育が持たなければならない「多様な人材の育成」に縛りが出ている。
で、中学校では、それは学校運営のアキレス腱でもあるのだが、多様性を含んでいると思われる。ただ、これを、画一化する校長が多いのも事実だ。
それは間違いなのだよ校長先生。全員を高校に送り込んで安住してはいけないのだよ。生徒全員の個性に合った針路に導いてやるのが学校の長たる校長の役割なのだよ。残念ながら進学高校別に統計を出して校長の成績簿のように思っている父兄が多いが、実は、人生の入り口のに導くのが中学校の特に現場を持たない管理職の使命なのだ。これに使命を感じるのには、ほとんどの中学校の校長先生が高齢者で定年間近で、事勿れ主義なのが残念だ。
その意味では「六番目の小夜子」には校長先生は出てこない。出てきても演ずる場が無いのだ、つまり、生徒から見たら校長なんて居なくても良いのだ。それを暗にドラマでは表している。
学校には歴史がある。が、それを知る余裕が無い
「六番目の小夜子」は学校が持つ伝統を寓話に託して生活実感として描いている。実は我々の実社会でも、寓話はたくさんある。西欧的合理主義で忘れ去られているが、我々は地域にそれぞれ寓話を持っていた人種だのだ。吸収の大分県に行くと、様々な場所に神様が居る。道のカーブを曲がって見えてきた河原の岩に注連縄が巻かれていたりする。土着の神が地域の歴史に根付いている。
学校も同じである。特に思春期の生徒を抱える中学校では過敏な感受性から、学校に係わる伝説におとまがない。「学校の花子さん」なんかが描くオカルトと言えない、子どもの残虐性と大人の理性の狭間にある中学生の精神状況が理解される。
私が中学生だったころも「学校の伝説」は有った。小樽市で早くからプールが有った中学校なので、プールにまつわる伝説であった。ある日プールの中に沈んでいた男性が居て、警察が引き上げた。この霊がプール授業で現れて、授業が始まる時の点呼で一人多く、授業が終わったあとで数えると、クラスの全員が居るのだが教師の帳簿では一人少なくなっているってものだった。
これは、公然の秘密として流布されていた。
また、メルマガで流れて来たのだが、傑作なものがある。
代々中学校で夏季合宿の時に先輩から「あの階段の踊り場の鏡は一人多く映る」と言われ、深夜1年生が集まって学校の階段の踊り場の鏡を覗きに行くのだけれど、人数は変わらない。朝になって「先輩、一人多く映ることは無かったですよ」と言うと先輩は「学校の階段に鏡なんか有るかぁ。お前達は幻の鏡を見てしまったのかぁ」と答える。なんて話しが流れて来た。
オカルトも含めて学校に伝説が有り、それが伝承されてるのがうれしい。それが、人間的なのだから。
日本の文化では伝説、伝承を大切に
ここまで読んで来て、さらに「六番目の小夜子」を見た人にとって、このドラマで僕が誰に思い入れしているのかが解ったことと思う。大きく分けて中学生の中では4人の主要キャストが居ると思う。ズバリ学級委員の子である。エクボが美しい、学級委員として凛としてる、気が強い、ひめたる決意がある。ま、そんな所が思い入れに通じる。
実は3番目の「男」の小夜子が兄だったってのは読まれ筋、でも、ドラマの後半で重要な演技を沢山こなす。
六番目の小夜子のドラマを合計6時間見て思ったのは、「いちご同盟より美人が多いなぁ」って(おいおい!)感想。でも、「いちご同盟」には無い、多様で沢山の出演者が有る。それは、「いちご同盟」が個人の中学生の問題にフォーカスを当ててるが「六番目の小夜子」は集団に焦点を当てている違いかも知れない。その意味でどちらのドラマが優れているなんて評価は下せない。だた、この種のドラマをNHK教育テレビであるETVが扱っていくことに意味があると思う。
学校文化てのは誰も手を出さなかったジャンルだ。でも、実は大変大切な記録なのだ。金ぱち先生が理屈ッポイのも通り越して、日々生きている中学生に語り掛けるのが教育改革なのだ。その意味で、ETVは徐々に実力を付け、六番目の小夜子で浸透しているのだろう。