テレアサの久米宏は老体を晒すな
「馬鹿馬鹿死ね!」てのが最近の久米宏
最近は見ないようにしているのだけれど、何故か今日は(5月21日)他に見るものが無いので見てしまった。で、感想は余計なものを見てしまった。
朝日新聞の朝日新聞たる所は、批判精神がジャーナリズムだと勘違いしている青臭い、昔なら典型的な民生青年な所にある。この青臭い奴らが看板にしているのが「ニュースステーション」と言える。この番組はもはや「時代的価値を十分果たした」のだが、なぜか、居心地が良いのか続いている。
首相攻撃も時のジャーナリズムが反体制であるならば良いのだが、森攻撃と小泉攻撃を同じ論調で行ってるのは餓鬼の論理でしか無い。例えば、ハンセン氏病の患者の訴えと国会中継をオーバーラップさせながら「患者に合わないのであれば小泉流の改革はうそである」なんて対比対象物の価値を間違った詭弁を堂々と放映している。小泉首相の「聖域無き改革」とは「一部の人の利権の為に、国を曲げてはいけない」ってことで、確かに国が過てる問題だが、しかし、一部の人の利権(は、言い過ぎで、権利が適語かもしれない)のために時の首相が動くってことは「道路特定財源」の構造と本質はなんら変わり無いのだ。だからこそ、ハンセン氏病の原告と合わないことが国民の利益の大所高所からは責められる筋では無い。
「共に傷みをわかち合う」って姿勢を朝日新聞に所属する「エリート意識の馬鹿」は理解出来ないのだろう。反論あったら、メールよこせ!
総理は「アイドル」では無い。
久米宏はタレントである。タレントってのは「才能有る芸人」と定義しておこう。たかだが芸人が国家を動かした例は無い。江戸時代の「瓦版」も時代を動かす事は出来なかった。今の久米宏は朝日新聞に操られたマリオネットである。それに気が付いていないのがなんとも不幸なのだが、昔「ヒットラーの悲劇」って話しがあって、「ヒットラーの悲劇は、あの似合わない髭をたしなめる側近に恵まれなかった」って返答が有った。
まさに今の久米宏は朝日新聞のタレントとして、誰も「髭をたしなめる」ことをしないのだろう。それが何を意味するか久米宏の能力では理解出来ないだろう。しょせん、「利用された芸人」でしかないのだから。
国益を代表するのが総理大臣なのだから、共産党のような国益無視のイデオロギが国を滅ぼすことは明々白々だろう。では、朝日新聞に具体的提言があるのか。朝日新聞の「社説」は語るに落ちる程意味を持たない。それは「真摯さ」が無い。ただただ時の権力に対する批判だけである。つまり、かわら版なのだ。高邁なジャーナリズムなんてのは朝日新聞を辞めてから目指せば良い。だって、「かわら版」なのだから。
ハンセン病を扱わなかった失態
「無意味な隔離」の事態を放映してきたのは日曜日深夜「誰も見てない」時間帯の番組であった。ニュースステーションは事実の報道すらしてこなかった。そんな番組が鬼の首を取ったように「小泉政権の聖域無き改革の試金石です」なんていったって、なにおかいわんやである。そもそも、そんな発言こそが不遜である。「自分の事は棚に上げて」と言いたい。
江戸の庶民の瓦版もしっかり庶民は見ていた。批判を只面白おかしく伝えたもの(吉元興業)、真剣に世にとうたもの。様々有った。がしかし、庶民は本物を見る目を持っていた。
今のテレアサはワイドショー的である。商業的報道価値に群がるハイエナである。そんなものを庶民は偽物と見抜いている。
老兵は死なず、ただ、消え去るのみ
時代に合わなくなった久米宏。これを盾に出続ける朝日新聞論説委員。この構造がもはや過去のものであって、朝日新聞が考える程国民は信頼していないのが解らないのだろうか。
久米は「降りた」のだ。その久米を続投させたのは朝日新聞社だ、これって、総裁選挙に橋本元首相を押した経世会と同じだろう。後継者が居ないから久米なのだ。それって、「さぶい」。
久米の後継者は居る。下品でみのもんたは無理だが、古館が居るではないか。それをクドケナイにもかかわわらず、久米続投の後ろで論説委員を出している朝日新聞は営業的失敗をジャーナリズムもどきで起死回生しようとアガイテルのでしか無い。その苦しさが番組から漏れている。にも係わらず続けるのは、敗戦を覚悟しながら戦い続ける旧日本軍と同じだ。
久米は朝日新聞の代行者(既に、その価値は無いが)を選択(復帰)した時に既に死んでいるのだ。その死者がやっている番組が「ニュースステーション」なのだ。