007は二度死ぬ(You Only Live Twice)

懐かしい映画、007シリーズ5作目
 1967年の英国映画です。題名でもあり、主題歌である「You Only Live Twice」が「二度生きる」では無くて「二度死ぬ」に日本語題名が替わってるのが当時中学生だった僕には西欧の文化と日本の文化の違いとして鮮烈だった。舞台が日本であり、丹波哲朗や浜美枝が出演してたし、幻のトヨタ2000GTがボンド・カーだったり話題性は有ったけど内容的には不出来(英国のスパイが忍者の訓練を受けるとか)でした。
 残念ながら映画の話題ではなくYou Only Live Twiceについて。
 最近トフラーの「パワーシフト」を読み直している話は前回に書いたが、最近の産業の変遷テンポは先の50年では考えられない程のスピードアップをしているのでは無いだろうかと思い始めた。
 個人にとっては同じ会社に一生勤めるのは不可能で、事業自体が40年も継続しない。そんな時代にこれからの50年はなるのだろう。過去にも自転車修理屋、時計修理屋、傘直しなんて職業は消えていた。これは人件費の高騰もさることながら逆に工業化の進展により直すより作るほうがローコストになったからだ。
 工業化ってのは常にローコストを目指して来た。だから、最もコストに響く人件費を抑制して少ない人数で大量に作るオートメーションが計られる。そのため、全就業人口に占める製造業の数が減っても工業生産は落ちない構造になってる。

一生に2度の職業
 You Only Live Twiceの話になる。
現在の教育制度は最終学年で社会に送り出す流れに乗っている。このため先に書いたように上の学校へのトコロテン式の押し出しが横行している。最後の大学では感心する程千差万別な大学生が存在する。
 で、社会に送り出してそれで終わりかと言うと、これが産業構造の変遷のテンポが早いので大学で習った事なんかすぐにすり切れてしまう。従来なら企業内再教育で技術やノウハウを得られたのだが、産業構造が変わる新たな職業に就く能力は企業内教育で個々人が入手するのは難しい。いや不可能である。
結局、新しい産業での就労を余儀なくされるのだが、ここに、昨今言われる「雇用のミスマッチ」が発生する。
 実は産業の変遷のテンポに加えて、労働者の内容も変化しているのだ。知的生産が主になる産業構想になると、工員のように「誰でもが取って代われる」職業は少なくなってくる。女工哀史のような労働力としての人手の大量動員を行える産業は、実は「誰でも出来る」産業なのだ。だから労働力は代替が効く。若くて賃金の安い労働力が「金の卵」と化すのだ。
 しかし、今の時代はこのような産業構造に無い。よって、失業者に対するセィフティネットも旧来の雇用者と労働者のお見合いの場を用意するだけでは効果を発揮しない。

本当の生涯教育が必要になる 
 昔書いたが、時代の変遷はまさにシティ・カレッジを必要としてくるのだ。政府の緊急雇用対策で職業訓練をテンポラリーに行うのでは無く、You Only Live Twiceの学校教育制度が必要になるのだ。
 アメリカで自治体が運営するシティ・カレッジが根付くのは学校教育が職業訓練と連動したからなのだ。日本では最高学府を出れば後は高級官僚にでもなって社会で働く。労働人口の流動化が少ないから、一度入社してしまえば馘首にでもならない限り現在の職場に(会社に)就労し続ける。そこでは職場内教育しな選択の余地は無い。
 アメリカでは企業は株主に利益を与えるのが最大の目的だから、従業員は必要に応じて雇いまた解雇する。労働人口の流動化が激しい。誰でも一生の間に数回失業するのだからその間に教育を行う機関が恒常的に存在する。やがて日本もそのような時代になるだろう。いや、既に入り口に来てるのかもしれない。
 少子化で四苦八苦の大学や専門学校はこの市場に生き残りを掛けてはどうだろうか。将来を見据えて新しくシティ・カレッジを国が制度として作るのは随分先になるだろう。ところが私学の柔軟性はこれを可能にする。明治の時代に私学として始まった大学教育は、今、ドラスティックな変遷の時代に向かっているとの認識が必要である。

ゼネラリストを育てるのが大学か?
 学部によるとは思うが、大学の機能は大きく三つあると思う。第一は民間との共同研究を通じて社会に貢献する機能。これが洞穴に閉じこもって論文ばっかり書いているのだから社会はスポイルする。この洞穴に閉じこもるのは企業内でやってるのだから大学が持つ必要は無い。第二は学生教育の機能。これは需給関係のバランスを欠いている面が有るので改革の必要がある。第三は社会教育の機能。ここではカルチャーセンターやっても良いだろう。なんで、新聞社ばっかりがカルチャーセンターやるのか良く解らない。大学はこの機能をもっと発揮すべきである。
 さて、この第二の機能にばかり確執して、しかも第三の機能は学者肌の人間に会わないのか無視して、それで大学が成り立っていた時代は明治時代だけだろう。加えて「ゼネラリスト教育」を標榜してあいも変わらず社会で役にたたない、個人の趣味のような学科が横行している。しかも、この道40年なんて教授が多い。学科名はあげないが「文部省のカリキュラムで必須になっているから有る」って学科にこの種のものが多い。単位取得が目的で学ぶ必要は無い学科と言える。
 大学で教えていると大変面白い事に気が付く。半年に1回の試験で合格するかしないかだけが問題で、学生も試験直前にしか勉強しない。そして、3日もすると同じ試験問題にすら答えられなくなる。学生に学ぶ充実感を与えていない。この試験方式が大学で横行しているのだ。教える側の手抜きとしか思えない。また、社会ではこのような試験で得る物が少ない(効果がない)ことは学習済みで、大学ってのは社会から乖離した存在になっているとつくづく思う。
 私の担当学科は「演習」なので毎週課題が出て結果を提出させる。2単位とるのに提出する課題は12、3回におよぶ。ほとんどは電子メールで提出させる。学生を見ていると、有る意味「その日暮らし」なのだが当日課題を完成させて帰ろうと演習時間が終わってもパソコンの前を離れない。やがて、要領が解ってきて他の学科の課題もパソコンで処理するのが苦にならなくなる。
 実は第三の機能は試験も無い採点も無い、真に学ぶ行為そのものなのだ。これが、教員続けてうんじゅうねんって人には出来ない。まさに、彼らにYou Only Live Twiceしてもらいたいのだが。

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2001.11.29 Mint