「翼をください」の再放送の価値は有った

15年ぶりの再放送だったのだぁ
 前に見た時から15年も経っているのか、と感慨を深めながら見た。NHKが教育にどう取り組んでいるのかの「言い訳」みたいな再放送だったが、このドラマの描こうとする主題を理解している人にとって、少しひねった出来の良いドラマと感じたと思う。
 まず、15年前を考えてもらいたい。僕自身についても15年前ってなかなか思い出せない。妻の母が寝たきりになり看病のために妻と子供が故郷に「逆単身赴任」だった時期だよなぁ。あの時、このドラマを見て「人間は置かれた立場を悔やむより、肯定的に捉えて前進しなければならない」なんて事を思ったような気がする。
その後、「人間が失ってはいけない3大項目」なんてので、
1)財産(これを失うのは辛い)
2)信用(これが無いと社会生活が出来ない)
でも、一番失っていけないのは
3)勇気
なんて話しを聞いた。このドラマで言えば「負け犬根性になるな」って父親の発言だろう。勇気を失ったら人間には何も残らないのだ。15年前に僕は仕事がら「パソコン通信」なんて業務を仰せつかった。当時先進地の大分県のコアラに取材に行った。丁度「ネットワーキングフォーラム IN 大分」が開催された1987年10月だったと思う。(その後、「ネットワーキングフォーラム in おたる」でコーディネータ演じるとは思わなかったが)。この時、大分のコアラネットワークでの標語は「前向き、ハキハキ、根アカ」であった。まさに、「勇気」を別な言葉で表現していたのだ、が、これを知るのも後年になってからだった。
「勇気」これを描くドラマは人々の記憶に残る。いかに人間には「勇気」が必要か、暗黙の了解事項なのだろう。その「萎えそうになる勇気」を支えてくれる背景、それを描いたのがこのドラマの主旨だと思う。その意味では同じNHKの「プロジェクトX」も萎えそうになる勇気を奮い起こしたドキュメンタリードラマだろう。

当時は「金八先生」が教育ドラマだったんだなぁ
 若干時期が違うが、教育ドラマとして「3年B組金八先生」は高い評価を得ていた。実は僕はこの番組に疑問を感じている(今も)。それは小山内氏の描く中学生が中学生自身に立脚していない空想の中学生であることが明白な点。ある意味、社会視点で見た中学生が描かれてるが、実像は描かれてない。
 問題解決に努力する金八先生以下のメンバーの努力がドラマの主眼だが、描かれている中学生は虚像に近い架空のものだ。だから、このドラマは「視聴者視点」でシナリオが書かれている。それは「テレビ放映」って世界の「ヴァーチャル」なものなのだ。実はドラマってのはインタネ全盛の現代においても「ヴァーチャル」を描いて成功したビジネスプランなのだ。
 当事者としての中学生を描けなくなったテレビ局に、当人である中学生は絶望しただろう。民放の中・高校生の扱いは常に後ろ向きで、今でもガングロなんかを放映するのはそれがトレンド(流行)であり、乗り遅れるなみたいな「洗脳」である。放送局は「本質を見きわめる力」を失っている。本質を見きわめられたら成り立たない土俵に生活してる世界の人間なのだから、自らの土俵を見直さないのは当然なのだが。
 で、社会経験がまったくない教師の一部はマスメディアを手本にしようとしてる。どうでも良いのだけれど、昔は「共産主義シンパ」の教師と闘わなければならなかったのだが、今は「大衆迎合教師」と闘わなければならない。まったく、教育のプロってのは現在の教育制度に守られた「既得権団体」でしか無い。制度と個々人の成果との検証は民間企業からすると「羽毛ふとんの中の寝袋生活」みたいに甘いのだ。
「まったく、馬鹿なんだからぁ!」

江口洋介が頑張っている
 僕は江口洋介は嫌いだ、最大の理由は「千里の旦那だっ!」ってこと。ただそれだけだ。
熊本大学は多くの芸能人を生んだと思う。宮崎美子から始まったのだが、実はこの大学の正面に有る熊本赤十字血液センターの仕事をしていたので、ここの大学は気になっていた。キャンパスを歩いたりした経験がある。
森高千里が紅白歌合戦でララ・サンシャインの歌詞を間違えたなんて話しはどうでも良いのだけれど、このドラマの江口洋介は青春ドラマの旗手としての未来も有ったんだよなぁと思わせる。基本的にこのドラマでの江口洋介は好みである。「負け犬根性」を払拭する「勇気」を演じている。このドラマの原点はやはり「勇気を持つ」ってことなんだと思う。それが出来る人間が「未来指向」であり、出来ない人間が言葉は悪いが「負け犬」なのだ。負けないためには勇気を持つ事なのだ。
 ドラマは目標である文化祭での開演でラストを向かえる。最初に見た時に「成功した場面」が何故無いのか不満に思ったのだが、15年を経て再度見ると実は「そこに至るプロセスが人生なのだ」って主張が改めて明らかになってきた。
 その事を踏まえると、実は「プロセス」で泣くドラマであって、文化祭での成功か不成功かはもはや主題では無く、ドラマの主眼が視聴者に伝わったかどうかの問題であり、出演した高校生個々にはオープニングにたどり着くことこそが大切なのだって奥の深い考察をラストシーンは描いているのかもしれない。実際に観客席に座る江口洋介の弟役の乱闘で腫れた傷口が「プロセス」を明示している映像カットなのだから。

勇気が無ければ未来は開けない
 今の若者に欠けているのは「勇気」だと思う。もっとも「今の若者」なんて語りをすること事態が自分が年寄りなんだって証拠なんだが。
教育が忘れてしまったものは「勇気の精神の伝授」だと僕は最近思う。未熟な未成年に受験テクニックを教える事よりも、国民の税金で運営される教育機関は真の「養育」を考えるべきだ。
今の教育の制度では高校が一番ネックになっている。高校が「目的別針路振り分け機構」と化しているのだ。驚くことに自分が高校生だった時代を30年過ぎて、娘が高校生になった時代を向かえて、なおかつ、高校(公立)は何も変わっていない。
目的を失っているのだ。先生(私は曲がりなりにも「大学の非常勤講師」なのだが、差別でも何でも無く、高校の教師は「先生」と呼ばせてもらう)個々人の価値観で高校の特色が決められ、国民の「教育を受ける権利」が高校では義務教育では無い故に「勝手気まま」に行われてるのだ。そして、国民の税金はそこにも「義務教育では無い」にも係わらず注ぎこまれ「金を出したから口も出す」って文部科学省の支配が及ぶ。これは私学についても同じなのだが、何故か私学は自由が有るって幻想が、よりによって私学側から表明されているのはまったく「金勘定の出来ない学問馬鹿」の発言なのだ。
 「私学助成」って憲法違反の現状に闘いを挑む「勇気」が私学に無い現状こそが改革されなければならないのだ。
「まったく、馬鹿なんだからぁ!」

ある意味、今の日本は「未来を開くには勇気が必要だ」って思想が欠如しているのではないか。それが「閉塞感」と他人事表現になって放置される。実は、自らが勇気を持たない結果が「閉塞感」なのだ。その意味をドラマ「翼をください」は訴えているので15年経ても新鮮なのだ。
 決して優秀な教師とは思えない片岡鶴太郎が、負け犬根性の生徒達に「勇気を持つことの大切さ」を体を張って教えた。そんなドラマだった。

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2002.11.16 Mint