紅白歌合戦、中島みゆきと中森明菜

最近「中島みゆき」フアン
 いまさら「紅白歌合戦」でもないだろうとの声は聞こえるような気がするが、僕にとって今年(あ、去年か)の紅白歌合戦で中森明菜を目にしたのがなんともうれしい。今の携帯で着信は「地上の星」、朝の目覚ましは「セカンドラブ」って設定なのだ。だから紅白で両者登場を喜ばない訳が無いじゃないか(笑い)。
 中島みゆきの出身大学で非常勤講師を始めた関係から結構「中島みゆき」を研究したりしたのは5年ほど前からだった。帯広での仕事も多かったので興味深く現地や書物を読んだ。で、たぶん中島みゆき像ってのは個々人に生まれるのだろうけど、僕は学生時代に無くなった父親への愛がその後の中島みゆきなのだと思う。
ご多分に漏れずNHKの「プロジェクトX」のテーマソングの「地上の星」なのだが、この歌詞を読むとやはり中島みゆきには医師であり帯広で個人開業してすぐに亡くなった父が「地上の星」なのだと思う。「カモメよ高い空から、教えてよ、地上の星を」って歌詞では『中島みゆきが見たカモメは広尾あたりなのだろうか』とか思ってしまう。正直、中島みゆきの育った十勝地方(生まれたのは小樽なんだよね。僕と同じ(なんやねんそれ!))でカモメってキーワードで詩を書ける人は居ないと思う。そこは文化感なのだが、中島みゆきは後年カモメってワードを手にしたのだと思う。
 でも、オールナイト・ニッポンを聞いてた世代から言わせれば多くの人の人生の背景ってのは「歳取ってから解る」もので、若いときは良い意味で先送りされてるのだろう。だから、「地上の星」を聞いたときに先送りされたものに中島みゆきはゴールで出会ったと思った。

30年前の記憶だよね
 「成人式をいかにとやせん」(笑い)みたいな話題がこの季節に出てくるが30年前は世の中もう少し緊張していた。成人式の案内が届いても捨てる人間が多かった。「反体制」ってのは若者のキーワードだった。中島みゆきと僕は歳が少し違う、たぶん1歳違うのだが、紅白歌合戦の記事を見ると中島みゆきが1歳年下になっている(オイオイ!)彼女は1950年生まれだろうにぃぃぃ!
 ま、歳の話しはどうでも良いのだけれど、今の中島みゆきに北海道、帯広のキーワードを求めることは出来ない。その雰囲気が無いのだ。何故かと思っていたのだが、大学で帯広出身の学生が話す情報では「中島みゆきは帯広時代を嫌っている」って話しだった。僕は若い学生が納得出来る情報と実際の情報のギャップを感じた。
 中島みゆきはトラウマに触れたく無くないのだ、でも、有名人になるってことは人気税を払わなくてはならなくなる。だから「人気税」を払わないアーティストになったのだが今回「紅白歌合戦」に出演してしまった。
 で、画像的に素敵だったが、歌詞を間違ってしまった。別に、それはどうでも良いのだけれど。「中島みゆき墜つ」みたいに見た人は結構居たのではないだろうか。紅白に出ることで「やはり、あっちの世界の人なのね」みたいに思った女性は多かったのではないかと思う。営業的に失敗だったとしても、今回の紅白出場で「中島みゆきを考える層」が増えたら喜ばしいと思う。特にオールナイト・ニッポンを来ていた「お父さん」世代は懐かしく、かつ元気づけられたのではないだろうか。

深夜放送って「東京」志向じゃないの
 実は1月に札幌で「ナチ・チャコパック」を行うらしい。この書き出しに全然ワケワカメな人が多いと思うが、昭和40年代って非常に不安定な時代だったと思う。古い者が駆逐されもせず、新しいものは台頭せずって不安な時代に青少年(あ、ここに僕が含まれてます(笑い))たちは新しい深夜放送に絆を求めた。
それが「オールナイト・ニッポン」であり「セイヤング」であり「パックインミュージック」だったのだ。それまで深夜のドライバー相手の桃色深夜放送が一変したのだ。その時代に遅れて中島みゆきも居た。今のネットワーク社会からは考えられないが、情報発信は中央から「だけ」だったのだ。だから「東京に行かなければ何も始まらない」と若者が思ったのだ。で、それで成功したのが今振り返ると解るがチューリップだったりクールファイブだったりするのだ。
ニューミュジックと演歌を例示したが、まさに、「東京で一旗揚げる」ってのがこのグループであり、両者の福岡出なのだ。
 この時代に東京を目指した人間が多く枚挙にいとまが無いが、同じ福岡からでも海援隊やタモリ。広島からは吉田拓朗などが東京を目指している。北海道からはこの時代には松山千春が上京し挫折して北海道に戻っている。
僕が「日産パックインミュージック」を聞いていた高校から大学の時代にこんな動きが有ったのだ。
大学を卒業する歳の秋だったと思うが、愛川きんやのキンキンパック(当時、パックインミュージックの金曜日はそう呼ばれていた)にゲストで大田裕美が出演して「今度こんなレコード出します」って紹介したのが「木綿のハンカチーフ」だった。当時の北見のレコード店でも珍しい「発売日購入予約」をしたのがこの曲だった。
卒業式前に就職先の企業研修が始まったので「東へと向かう列車」には乗らず(もっとも、北見市から札幌市は西になるのだが)、親の車引越し下宿を引き払ったので歌のようには行かなかった。ただ、その前に家庭教師をしていた家に挨拶に行った時に(そこは工務店だったのだ)「旅立ちの祝いにこれ1本持っていけや」と親父さんに一升瓶をもらい、これを持って、何回か出入りしてた焼き鳥屋の「みちる」でおばさんと飲んだ。「卒業の祝い酒だ、みんなに飲ませな」ってとっくりにしてその時の客に配ってくれた。その時の客は当時の国鉄の労組だったのだが「就職が国鉄で無いのは残念だなぁ」なんて声をかけてくれた。まさか、民営化するとは当時は誰も思わなかったのだろう。
話しが逸れた。
今の時代は沖縄ブームだが、やはり「沖縄から東京に出る」ってルートを歩んでいる。多くの若者は昭和40年代に「やはり東京だべさ」と思って実際に東京に移り住んだと思う。その原動力に深夜放送が有ったか無かったかの議論は追いといて、僕は「時代」て中島みゆきの曲に潜む歴史観に紅白歌合戦を見ながら触れたような気がする。
あ、実は生放送は酔いつぶれてて、この文章はビデオを見てから書いてます(恥)

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2003.01.10 Mint