見てるだけじゃあかんねぇ
またNHKのドラマネタなのだが
どうした事かNHKの単発ドラマを結構見ている。連休中に放映された北九州を舞台にしたドラマも見ていた。そのドラマの表題とかを書けば良いのだろうけど、実はドラマ自体は紹介に耐えられるほどの作品では無かったのだ。
概要を説明するとインターネットを利用した小学校同士の交流事業で都会の小学校と棚田で有名な村の小学校がテレビ会議システムで交流する。その時に村の小学校の児童(男の子)が都会の小学校の児童(女の子)に興味を持ち電子メールで交流を始める。村ではこの児童(女の子)の名前が村の名前と同じなので棚田のオーナーになってもらい村に来て貰おうと運動する。
実はこの都会の女の子は車椅子生活でとても出歩ける状態では無かったのだ。
福岡に行って彼女に会いたいと出かけた児童(男の子)はその事実にショックを受ける。棚田の未舗装のジャリ道を車椅子で登る事すら出来ない。でも、彼女が棚田のオーナーになってもらいたくて児童(男の子)は棚田の作り方を学び棚田を作る。
いよいよ彼女が村を訪れる。そして彼女を背負って坂道を登り彼女の棚田に案内する。棚田で土の匂いを嗅ぎながら「やっぱ、見てるだけじゃあかんねぇ」と彼女が呟く。
こんな内容のドラマなのだ。
ドラマの出来不出来で言えば、インタネをきっかけにするのなら永遠の名作「空と海を越えて」、「ネットワークベイビー」に比べて小学校のインタネ交流は弱いだろう。しかも、小学校交流って「お祭」のインタネ交流がきっかけなのだ。でも『出来がイマイチだなぁ』と思って見ていた僕には「やっぱ、見ているだけじゃあかんねぇ」の一言が強く記憶に残った。
インタネを使った交流が不発
ITも「ITバブル崩壊」なんて言い方されると「結局金なんかい!」と怒鳴りたくなる。18世紀後半の産業革命の時代でも同じことが有ったのだろうか。
僕は古くはパソコン通信、今ではインタネのメールとか掲示板は「カレーライスの福神漬」と考えている。本筋を補佐する機能なのだ。本筋がインタネに有る訳では無い。2チャンネルが恐いのは「厨房や消防や工房」がネットをを本筋にして、全勢力を注ぎ込んでいる姿勢だ。ネットだけの世界は文字通り「バーチャル」(架空)なのだ。それは仮想世界で実世界では何も生み出さないのだ。別な世界で別な生活を演じるのは自由だ、だから別世界の存在に僕は別に何も言うつもりは無い。
でも、国民の税金を使ってインタネを教育の現場に導入した文部科学省に至ってはそう割り切ることは出来ないだろう。で、ベタな企画に予算(税金)が付いて実証実験をする。実証実験なので当然協力させられる対象が選ばれる。でも、これって実証実験の予算が切れた瞬間に協力させられた双方の通信環境は没になるのだ。自腹を切って継続したい程度の魅力は無いのだ。つまり、「他人の金なら協力するが、自ら経費負担する気は無いよ」って事。
原因は沢山有ると思うが、基本は森首相が唱えた「Eーjapan」。とにかく実績をって役人の、文部科学省の姿勢を正面からでは無く離れた所に目を向けた点で、このドラマの意味を感じたのだ。NHKなのだから「決して国策の批判では無い、国策への提言なのだ」って作りもインパクトを弱くしているが、正直さの現れだろう。
インタネは「一期一会」の道具の一つ
アマチュア無線の世界では「アイボール」って言葉がある。文字どおり「眼球で見る」ってことだ。無線って媒体を利用して出会った者同士が実際に会うってことだ。実はメディアでの交流は「キッカケ」提供なのだ。実際に会えない物理的遠距離を越えて広く薄い同好の人々をかき集める。具体的には日本語の世界に限れば日本全国に存在する「自転車オタク」がネットを利用して会する「キッカケ」を作る事ができる。
好ましい例では無いが「出会い系サイト」ってのは言葉を変えた「一期一会の道具」なのだ。政策ってのは政治家が作るのだが間が抜けてると思うのは同じ「一期一会の道具」の機能を「出会い系サイト」のみ規制しようとしてることだ。技術には使い方は無い、技術は機能を提供するものなのだ。その使い方を法律で規制するのは技術の発展に逆行するのだが、なんせ、ITが良く解らない国会議員集団なのだから「けしからん!」の感情論しか無いのだろう。再度繰り返すが「技術の使い方を規制すると技術の発展を阻害する」ってことだ。
人と人の出会いを法律で規制するって国家を「管理社会」と呼ばない日本は何処かおかしいと思う。「自己責任社会」に向かって努力すべきなのに、国家管理体制を助長しているのだ。政治家が有権者から「お願い」されてるから自己責任社会が作れないのは明白だ。そもそも日本って国は立法府と行政府は自民党に握られて、境目の無い状態で鈴木宗男のように立法府が行政府に「口効き」出来るのだ。これって、そのうち裁判官に「あの事件は無罪にしてくれ」って国会議員が圧力かける余地が有るってことで、とてもこの国は三権分離してないのだ。それを是正する力が立法府に必要なのだが、自民党って立法府が行政も参加にしてしまったのだ。だから日本には三権分離の精神は有るけど実態は自民党の2権支配なのだ。この構造は政権が変わらない限り「過去の実績」で行政によって継続されてしまうのだ。
地図は現地では無い
僕が自転車で北海道の全市町村を訊ねてみたいと思ったのはまさに「地図は現地では無い」って言葉を聞いたからだ。それまでは「212市町村ホームページ拝見」なんてのをホームページでやっていた(今もやっているが)。最初は「北海道市町村ホームページ レッドデータブック」なんて過激なタイトルで掲載していたと思う。もちろん同時平行で「自転車紀行」も書いていたのだが、何となく思ったのは「書くなら見ろ」って意識だった。
つまり「ホームページは現地では無い」ってことなのだ。市町村名をキーワードにして検索しても北海道の市町村はなかなか出てこない(なんで郵便番号案内が出てくるの?)。
で僕は「見てるだけじゃあかんねぇ」に感心したのだ。そのとおり、インタネで見て知ったようになってはいけない。「地図は現地では無い」現地への案内が目的なのだ。だから、情報を得たかったら自ら見た情報で確認しなければならない。具体的には先のアイボールと同じにバーチャルのまま置いておかないで実生活に繋げることなのだ。
そこでインタネで見てるだけでは無くてこれを「一期一会」として継続的な交流活動を始めるキッカケとすることが大切なのだ。
過去の例を上げるとパソ通華やかな1990年頃に北海道の日本海側南部の瀬棚町の酪農家が集まって出来た地域興し集団がたまたまパソ通事業であったNorth Windsを通じて十勝で100万坪迷路を地域興しにしている集団と知り合ったのだ。酪農は英語でデイリーと言うように朝晩の搾乳は365日必要だ。そこで酪農ヘルパーを組織して時間を作り、十勝の本別町との「アイボール」交流を始めたのだ。
本州と違い広い北海道なので瀬棚町と本別町の距離は300km程離れている。往復10時間をかけて瀬棚町と本別町の交流が行われたのだ。
これはネットワークが「広く拡散した運動を情報で集約する力がある」って事例だと思う。瀬棚町で考えてた地域興しと同じ志しは近隣市町村では無くて300km離れた本別町に有ったのだ。ネットワークが無ければ交流は始まらなかっただろう。
「見てるだけじゃあかんねぇ」ってのを体験して初めてインタネがヴァーチャルな世界では無くて実生活にもつながっているのだと納得出来るだろう。E−JAPANも2005年で最終年をむかえるが「インパク」のようにヴァーチャルで終わる事業がいかに税金の無駄使いであったかを反省し、インタネが道具であるって事実を認識し、それによってどんなソフトウェアやユースウェアが発展するのか、そこからどのようなビジネスプランが生まれてくるのか。そのあたりが大切なのだが、役人には描けないのだろうなぁ。
僕は役人の最大の問題点は「自分の執行した事業は最高!」って勘違いだと思う。自分を客観視出来ない人間を僕は自分中心に世の中が動いていると考えている「自己地軸人間」と呼んでいるが、まさに役人の悪癖はここなのだ。一歩譲って「悪癖」を「宿命」と書き換えても良いのだが。
「地図は現地では無い」、「見てるだけでじゃ、わからんねぇ」。税金を使った実証実験が後に事業として根付くには「人材養成」が予算に入ってない現状に問題があるのだ。生涯教育も含めて「人造り」こそが税金を使う価値があるのだが、機材買って終わりでは何時までたっても「箱もの」でしか無い。
「見ている事」を推奨する今のインタネ利用促進予算はどこか違っているのだ。