行政>ヒタヒタと迫る増税の足音
国会が行政争いの間に、国民へつけ
三権分立って制度は互いに睨みを利かすってことで、それぞれが独立して国民に預託された責任を果たすって「理論」だ。先に書いたように立法府である国会は行政府のトップである大臣の「椅子取りゲーム」と化している。そのために、官僚による国家支配が野放しで蔓延する官僚国家が出来上がってしまった。
言葉を整理しておこう、誰が国を動かす原動力になっているかで「国民国家」は国民が国を動かす原動力、国民の志向と国家の志向が一致する状態。その意味で「官僚国家」は官僚の志向と国家の志向が一致する状態。つまり、官僚国家とは行政府国家でもある。三権が互いに睨みを利かす三権分立が形骸化し行政府国家になっているのがいまの日本だろう。
その意味で太平洋戦争後、新憲法の下で官僚を辞めて国会議員に転身した宮澤喜一氏、中曽根康弘氏は供に「官僚のトップになるには大臣になれる国会議員が早道」と悟ったのかもしれない。同僚とトップの坐を争っても最後のトップは国務大臣なのだから、回り道かもしれないが、より高いゴールを目指したのかもしれない。
行政府国家で何故駄目なのか
特に誰が実権を握ろうと、国民の満足する政策が行われるなら仕組みや制度に拘らなくてもよいと思う人が居るかもしれない。それは民主主義制度が発展途上であり、本当の主権在民に向かっての試行錯誤なのだとの現実を踏まえた歴史観に欠けている。つまり、近代国家の基本である律令制度国家においては、国民には納税の義務が様々な理論武装により科せられている。それに対して国民の政治(行政)への参加が保証されているのが民主主義国家だ。
例えばアラブの産油国に見られるように石油資源での外貨の獲得を国が行い収入を国が得て行政を行っている王国等では、国民は納税の義務は無い、しかし参政権も無い。唯一国民の忠誠を得るために不満を押さえるために、社会保障制度が全額国の負担で行われてるだけだ。だから、国王が替わったら国民生活はどうなるか解らない。民主主義政権に移行するのか、武力独裁制度なのか、はたまた共産主義なのか、国民は選ぶことができない。
日本は太平洋戦争に負けた事により「ある種!」西欧先進国会の律令制度を制定した(された)。その制度も本当の主権在民を実現するにはどうするかって発展途上の制度だ。その理想とする所は代議員制度であり、国民は選挙により本来個々人が持つ権利を代議員に預託する方式になっている。
衆議院選挙の度に投票所で渡される「最高裁判所判事任官の可否」の用紙を渡されるが、これは形骸化しているが、これが国民の司法への意思表示の機能なのだ。
日本の国の運営は三権分立が基本である。国の運営を行政府にだけ預託する合意は憲法を含めて国民合意では無いのだ。
パーキンソンの法則
一言で言うと誤解を招きやすいのだけれど「ひたすら役人は増大するという法則」がパーキンソンの法則にうたわれている。考えてみると行政、広く公務員ってのは「入るを計って出るを図る」って税金の基本を解ってない層なのだ。建設国債や赤字国債のような借金を理解出来ないほど官僚の感覚は「官僚一筋30年」で麻痺しているのだ。
税金は民間が出来ない国民の生命・財産を守るために必要な滞貨だ、だから、必要ならガンガン国民から集めてよいって感覚が「パーキンソンの法則」そのものなのだ。
介護保険制度の時に「やれやれな日本の政府」と思ったのだけれど、国会が立法の職務を果たしていないから、介護保険制度(当時の厚生大臣は小泉純一郎なんだよ!)が国会で立法された。当時関連するシステム開発に携わっていたのだけれど、60歳以上の人からは年金からの天引きって制度に怒りを感じた。つまり、有無を言わせず年金の口座から受け取る年金を「事前に」天引きして介護保険料を集める仕組みを決めた制度なのだ。馬鹿しか国会議員になれない典型だろう。年金から天引きって制度を認めた最悪の制度が「介護保険徴収制度」なのだ。
介護保険については別に語りたいが、基本的に役人は新しい収入を目指して制度の提案(これって法立、つまり立法府の仕事)をガンガンしてくる。
自己肥大する役所を精査出来ない国会議員って今の制度のなかで、全ての金銭的課題は国民に振ってOKって感覚が常識になってしまった。
そもそも行政の効率化が国民の要望なのだが、立法府と行政府が「癒着」しているいままでの日本の政治制度の欠陥が、ここに来てにっちもさっちも行かないようになってしまった。
廃止するものは廃止
行政の仕事量は増えているとは思わない。現状に合わない制度の廃止と級数的に膨らむ管理のための管理を見直して効率的な小さな政府を作ることが必要だ。これは地方自治にも言えることで、昨今の国による市町村合併奨励も、突き詰めると行政(国も地方も含めて)の効率化に対する黒船と言える。
この際、行政とは何かを今一度考え直してみる良い機会だと思うのだが、実は既に手の付けられない状況に陥っているってのが現状だろう。国がアメリカに約束した公共事業を行うために地方に借金させて推し進めた箱もの行政が表面化する前に市町村合併でうやむやにしようとしているが、そもそも、国の政策(担うのは行政府だ)のしわ寄せを地方が被っている現状に誰も責任を負わない。
財源が足りなければ国民から徴収して辻褄を合わせる。これって、江戸時代の年貢米制度による農民からの絞りたてと何ら変わらない。そもそも時代に合わせて新しい制度が必要なのなら、同様に不用になった制度を見直し税源を確保すべきなのだが、一度作った制度は時代のニーズに関係無く既得権として続け、新しいことは新し財源確保に走る。そんな行政は国民迷惑なのだ。
介護保険料も結局は税金である。昨今議論が始まった環境税、原子力発電による核廃棄物処理に関わる財源を電気料金に転化、介護保険料については20歳以上に拡大し医療保険と同じように給与天引き。
一番の問題点は年金制度の改革だろう。国が徴収して高齢者に支給する安心の制度が国は面倒見れないから各自の老後は自己責任でって180度転換している。そもそも、制度が始まる時には「すばらしい制度」と唄っておきながら破綻すると国民に負担を強いる。そもそも社会保険庁の肥大化による無駄な出費や不正な出費の責任を誰も取らない。そして、失敗の後始末を国民に押し付ける。
議院内閣制度に潜む国民無視の財政運営に誰も責任をとらない。せめて、立法府と行政府は分離しなければこの国の未来は無いと思うのだがいかがなものか。歴代の総理大臣は全員切腹ものだろう。最後は国民に請求書を回せば良いって行政になった責任は総理大臣を輩出してきた自民党にあるのだ。我々国民の預託に答えられなかった責任を自覚すべきだ。
増税による官僚国家の維持は限界に来ている。小さな政府への揺り戻しがこれからの政治トレンドだろう。とにかく、今の政治制度は見直すべきだ、所詮政治制度なんて人類あげての発展途上なのだから、どんどん前向きに改革すべきなのだが、戦後、平和憲法に固執するあまり現状を見直す気運がタブー視され続けた。小泉純一郎首相も「首相公選制度」に見向きもしなくなった。アメリカの大統領選挙に見られるように、三権分離制度の下では首相も直接国民が選ぶ制度が必須なのだ。