ドッグエイジvsエレファントエイジ

アメリカ再生のキッカケ
 全ての古典的経済原則に乗っ取った施策が破綻をきたしたのに、アメリカは何故か好景気に沸き、必死の日本パシングも下火になったのか。かたや、日本の閉塞間は21世紀を迎えるまでに解決するのか。このあたりについてのおもしろい話に触れる機会があったので、いままでの情報を少し整理してみたい。
 宮中晩餐会でブッシュ大統領が、いわゆる「ブッシュする」事件の頃、アメリカの再生が始まったという説。当時、昔の池田首相が「トランジスタのセールスマン」と呼ばれたのと同様に、自動車各社の会長を従えて日本訪問したブッシュ大統領の閉塞間とは前任のレーガン大統領の築いた膨大な財政赤字の後始末。
 これを対日攻撃で乗り切ろうとしたが「ブッシュした」のだが、これ以後、アメリカは官の力による経済再生から、民の自助努力による経済再建へと向かったと見える。レーガン大統領のSDIに見られる軍事強化は、アメリカの慢性的財政赤字に拍車をかけたけれど、冷戦に終止符と打った効果は歴史の評価として定着しても良いのではないだろうか。およそ、世の紛争はイデオロギーか貧富の差によるもので、圧倒的差異で東側をねじ伏せたレーガン大統領は、軍事力強化によって冷戦を終了させた人物として歴史的評価(パラドックス的ではあるが)を得て良いと思う。
 「チェンジ」を合い言葉に大統領に就任したクリントン大統領が国民から「一番チェンジしたのは当のクリントンだ!」と揶揄されるが、ゴア副大統領の提唱する「情報スーパーハイウェイ」は、今のアメリカ経済の体質改善すべき方向を導いた施策ではないだろうか。2人は国民に、どのように時代がかわりつつあるかを、明確な方法つけとともに示したと言える。

最も難しいのが「自己改革」
 フランス革命に代表されるように、時代に即さない政権を時代に合った形態に変えるには、他の勢力による現勢力の淘汰が一般的である。自ら時代に即した形態に脱皮出来た政権は過去例を見ない。55体制の崩壊から5年、日本でも「自己改革」による自浄政権は望めそうもない。厚生省事件、証券事件、金融機関の倒産、生保の倒産、時代は確実に新しい方向に動いており、旧来の制度疲労が待ったなしに表面化しているのだが、新しい方法を指し示せないでいるのが、政治の閉塞感であり、リーダー不在の日本の現状では無いだろうか。通産省が「我々の省庁は不要です」と通商産業の見地から言い出すような機運が無ければ、財政再建なんておぼつかない。一人橋本首相が火だるまになろうが、制度疲労は自滅的崩壊以外に道は無いようだ。
 日本の制度改革はアメリカと比較して遅い。何故ならば明文化した頃には終焉を迎える程、阿吽の呼吸で物事が決められる多民族国家には無い特性があるから。制度は後から付いて来れば良い。
 しかし、大きな転換期を迎えた場合、道標は阿吽の呼吸では見いだせない。方向を過たず明示する明文化された道標が必要になる。しかも、農耕民族の保守性がそれを現勢力に求める。そして粘り強く待つ。気が遠くなる程待つ。
 現に、5年間の政権たらい回しで、政治に時代の方向を示す力が無いことが明確になった。ここは、橋本総理一人火だるまになって終焉してもらい、まったく新たな勢力が取って替わらなければならない。この気概が有る政治家しか生き残れない時代に既に突入しているのである。自己改革を迫っても実現できないのであれば、取って替わる選択肢しか残されていないのである。
ドッグエイジvsエレファントエイジ
 アルビントフラーが「第三の波」で予言したネットワーク革命時代は確実に浸透している。1985年の電気通信自由化から12年。我々の身の回りでドラスティックに変化を続けるネットワーク分野の例の枚挙にいとまが無い。
 この変化にバブル崩壊後のリストラが追い打ちをかけるように、何処の職場でもパソコンが設置され、電子メールが活用(本当の活用にはほど遠いが)されている。12年かかってこのような状況になったから気が付かないかもしれないが、従来の「番頭はんと丁稚どん」の商業形態と比較して、この12年がいかに変化していたかを振り返ってみると良く分かる。職場環境も変化したし、家庭も変化した。少なくとも1世代前のホームドラマのような生活は無い。テレビが唯一の娯楽の時代でも無い。トレンディドラマに描かれている虚像は実は都市生活者の理想を若干加味した実像である
 電子ネットワークが行き着く先は、旧来とまったく変わった生活空間であり商業空間になる。それの急激な変化に対応できる柔軟さを持つ者が犬の成長のように急激に変化するドッグエイジであり、まったく受け身で自己の変革を招かないのが象の成長に揶揄されるエレファントエイジであろう。
 多民族社会であるアメリカが、制度を明文化して人々に広められ周知される手順を踏むのに比べ、ヨッシヤ、ヨッシヤの大多数が単一民族の日本では社会の変化への対応力が違う。20年も日本にヴェンチャーが育たないのは、制度の問題や、規制の問題ではなくて「民族問題」たることを認識すべきであろう>通産省。
 日産自動車のイチローを起用した「かわらなきゃ」は、妙に暗示的である。今、大切な事は、自らを変革していく勇気を持つ人々を前面に出すような社会の仕組み作りであろう。「老害」は叫んでいるうちに、既に「高齢者問題」にまで世代交代してしまった(笑い)。社会が変わるためには自己を変えようとする「勇気」を賞賛する民度の育成であろう。
イチローの「かわらなきゃ」を他人事にように受け止めていては、21世紀は迎えられない。
それにしても、ダイハツの「かんどう、かんだうの」は、耳について離れない(笑い)。

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1997.06.12 Mint