荒れる中学生への考察

原点からのアプローチ
 21世紀を数年先に迎える現代において、社会規範である諸制度が現状に合わなくなっているにもかかわらず、現状維持の保守性が改革を鈍らせているのではないかと気にかかる。
 極端な例だが、今の高速車両の最高速度は60km/時と定められている。これ は昭和20年台中盤の規則である。これが、何故現在まで継承されているのか。当 時の日本国内の自動車の性能では60km/時を出すことが困難であったのでは無 いか。現在この規定により市街地には膨大な40km/時制限の速度規制道路標識 が氾濫することになる。
事は単純である。市内全域は40km/時制限とし、特に許可されたバイパス等で 制限速度を明記すれば良い。北海道のように都市間距離が長い所では、最高速度を 道路管理上の危険度で表示する方式を取れば良い。冬季積雪時速度の明示である。
 さて、義務教育の小学校中学校であるが、荒れる中学校の実体は若干小学校にも 低年齢化するかと思われたが、現実には小学校にまで波及する例は少ない。ほとん ど見受けられないと断定的に表現しても良いであろう。
 小学校と中学校の大きな違いは、中学校において初めて「多様な人格との交流」 が志向される点であろう。自我に目覚めるとともに人間には多種多様な人格があり それぞれを認めなければ社会が成り立たない、社会構造の理解が中学校教育の重点 である。もちろん、受験に向けての学力取得も有るが、これは小学校とて同じこと である。

多様な人格を教える努力を
 中学教育の真の目的、方向をここに位置づけて考えてみると様々な事象が説明可能になるので驚く。
 女子高生のルーズソックス、プリクラブーム。これは、多様な人格を認める自我 を形成するプロセスのどこかに欠陥があったのであろう。多くの横並び志向は実は この中学教育の未熟さにあるのかもしれない。
 筆頭は男女を問わずピアスにあるかもしれない。昔(と言っても、ベトナム戦争 &ヒッピーの時代)、自らの体を傷付ける行為には社会的主張が込められていた。 たとえピッピーであっても信条が有った。現代の若年層のピアスは社会的主張とは ほど遠く、先の横並び志向へのアンチテーゼでしか無い。
 今回の神戸須磨区の事件を普遍化して語るつもりは無いが、漏れ聞く少年の供述 には多様な人格が集まって社会が形成されている認識が薄い。単純に1個の自分と 1個の他人である。決して1個の自分とn個の他人に精神が育成されていないよう だ。
 人間関係とは難しいものであるが、基本に1個の自分と1個の他人の意識が植え 付けられては内面と外面の葛藤しかなく、多様な人格による自分の育成もおぼつか ない。
 「いじめ」問題をこの視点から見てみると、1個の自分が集まった1人格集団で は集団に属さないキャラクターは排除する方向に進む。決して、多様な人格の存在 を認めようとしない。自分に非なるものは排除する論理である。

15歳での社会選抜の是非
 高校受験から社会選別の開始である。15歳で元服した時代から見た ら今の平均寿命は倍に迫っている。この社会環境の変化のなかで人格形成時期と社 会選抜とを両立させようとする現在の教育制度は根本的に見直さなければならない。
現在の中学校教育が担わなければならない事は、多様な人格とのつき合いである。 この年齢の子供達を上位行程への選抜の荒らしに晒してはいけない。日本が独創性 を阻害する社会であるのは、育ってきた教育制度が独創性を許さないからである。 決まり切ったレールの上を走っていては時には自分でハンドルを切って自由に進路 を選びたくもなる。それが許されない。そして、レールの上は一律集団行動列車が 走り人間形成に一番大事な人格形成の駅には停まらない。
 そして、以後の教育はこの人格形成の欠陥を補完する場は無い。
 暴走族と呼ばれる青年と話した事がある。そんなに走りが好きなら職業にしたら 満足できるんじゃないか、と言うと、走りは好きじゃない、だけど自分を目立たせ るには走りしかないから走っていると語ってくれた。これも目的喪失の典型であろ う。自分が人生で何を達成すべきか、先人の教訓に学ぶ機会が失われてしまったの であろう。

教育改革は下から行え
 大学の飛び級入学が話題になっているが、所詮抜本的で無いが体裁が整うところに手を染めただけ。現在教育の場で様々な矛盾を抱えているのは義務教育最後の中学校である。ここに現状にそぐわなくなった制度の閉塞が有る。高校では1学期に九九をやらなければ授業が出来ない現状はもっと下、つまり、小学校から全体を再構築しなければ解決しない。
 思い切って小学校3年、中小学校3年、高校6年の是非にまで議論を広げたらど うだろうか。
荒れる中学。これを当然そうなるだろうなと感じている親は多い と思う。それを読みとれる神戸市須磨区の事件であった。
 どうも、この国は皮相はは追うが、根本の議論は避けて通る風潮があるようだ。

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1997.07.16 Mint