情報リテラシー(感性)トレーニング

解る人にしか解らない情報
 あいも変わらず日本語の乱れには目を覆う(あ、話はインターネットのメーリングリストの事なので、耳を覆うじゃなくて目を覆うです)事態です。
 パソ通で鍛えられた(笑い)こちとらとしては、文字の一字一句に誤読されないように気を配っているのだけれど、文字に無頓着なメールには疲れてしまう。立て板に水とは言わないが、そこそこの文章を書ける人のメッセージは本文はもちろん、行間にも意志が存在して、「暗にこのことを指しているんだな」と解り、こうゆうレスポンスをするとこの方向の話題をいろいろ提供してくれそうだな、と非常に楽しみになるのです。
 最初パソコン通信の文字だけの掲示板に書き始めた時、この掲示板でのやりとりは釣りのようなもので、上手に餌を付ければ大漁になるって発言して顰蹙を買ったものだが、まさに舌を巻く(この場合、指を巻くが正しいのかな)ライターがそこかしこに存在した。

意志表示を訓練しない学校
 我が社ばかりでは無いと思うが、10年ほど前から(つまり、共通一次試験のマークシート世代あたり)、言いたいことを言えないストレスを感じると若手社員から言われることが多い。これは個々人の問題で、社会は聞き上手ばかりでは無い。むしろ、社会は大声で発言し説得する人間によって動いているのだから、自らそう訓練しないかぎり社会は変わってくれないと繰り返している。
社内会議で試験的に「ディベィド」を取り入れてみたりしたが、いっこうに変化の兆しはない。
これは、日本の日本人の育て方の間違いなんだろう。特に顕在化していないが根本は自らの個性を前面に出すよりは、集団行動に従う教育を中心にしているためかもしれない。日教組なんかは戦前の全体主義を批判するにも関わらず、現場で生徒に行っているのは全体主義教育なのである。その証左が「透明な存在」って今年の流行語に選定された語彙に現れている。つまり、教育の場が「透明な存在」を生み出していることに問題意識を持ってもらいたい。
 数年前に富山の県庁のメーリングリストで「富山を住み良くするにはどうするか」って議論があった。メーリングリストってものが初めてだったので参加させてもらった。これに参加していた高校生達が「おめーは60歳のジイサンか!」って怒鳴りつけたくなる程覇気がない。横並びを肯定するは、定住志向は古くさく都会に出ていくのが夢だとか、まぁ自分たちがこれからの富山を(時代を)背負っていく気概が無い。ここで、「君たちには志が有るのか」って一石を投じた。経済的裕福、地理的不便さ、教育機会の不公平、そんな個々の実体をあげつらう前に、自分たちはそもそも何がしたいのか、しっかりとした目標を持ち、それを進めるための障碍は何かを語り合わないと言葉遊びのメーリングリストになるって思いの丈を書いた(笑い)。

高志の國の低レベルな若者
 あんの上、高校生の発言は止まった(笑い)。2,3の喧嘩売られたと勘違いしたツッパリが感情的に反論してくるだけで、これは簡単に撃破した。北国新聞の編集委員だったと記憶しているが、彼が一連の流れを見て、メーリングリストで雑談した中に何かヒントが無いかと思ったが、まさかそんな次元の高い話に引き上げられるとは思ってもいなかったって書き込みがあった。そもそも富山地方は冬季間雪に閉ざされる地域的不利を高い志を成熟する季節と置き換え、春が来たら何をするかアイデアを煮詰める地域性が有ったはずだ。にもかかわらず全国一律の情報流通が地域の特性を無くしてしまったと嘆いていた。
 で、話は戻るのだけれど(笑い)、少なくとも高校生レベルってのは、自分の志を持たなければならない世代であろう。経験が少ない分は書物により先人の経験を解らないまでも参照し、自分なりの意見や物の見方を成熟させられなければならない。
100歩譲って、受験で忙しいとか理由は有ると思うが、一番大切なことは自らの物の考え方を育成する時期にそれに沿った教育が行われていない現実にもっと社会が目を向け、改革しなければ、次世代を担う人材の供給を得られないって、まさに日本沈没の危機にあることを解らなくてはならない。

教育で学ぶ経験
 特に現在の日本の学校制度を肯定するものでは無いが、小学校、中学校、高校、大学のそれぞれの節目で体得しなければならない社会人としての素養は以下のようであると考えている。
1)小学校
 人から学ぶことを体得する時期
 マンツーマンって手法で先人の知恵を得ることができる。読み書きを知ることにより、書物って媒体から智恵を得ることが出来る。先人は自分よりも知恵者であることが解り、目標が明確になる。
2)中学校
 世の中には多種多様な人間が存在し、自分も多種多様な中で相対的に他人から見られていること。世の中はこの多種多様な人間によって動いており。決して自分中心で動いているのでは無い。
生徒にとって中学校教育の大きな変換点は教科毎に教師が替わり、同じ教科でも学年によって教師が替わり、その教え方に多様な個性と多種な人格が存在することを会得できる。
3)高校
 ここで自分の将来進む道を概要でも捕まえるのが大事。地域共同体の小中学校に比べると、学力が同等の同一世代の人間が集まった中で得られるものは大きいはず。より深く学問を追究することで、全てに好成績を納めるのは不可能で、自分が極める道を探るために、必要も無い微分方程式を解かなければならないのはご愛敬。
4)大学
 1)、2)、3)の集大成になっているかどうかで、まったく国費の無駄使いかどうか分かれる所。産業の担い手として育つ人材になるかどうか、ここでは総合的評価が下る。

結局、この4段階の何処かでふるい落とされていた時代と違い、半数の人間がPahase4まで進む現代では、それぞれの行程で積み残したまま次へ進んだツケが、最終的に社会に出て個々人に回ってくる。残念ながら、このツケは拓銀の不良債権のように取り戻すことが出来ない(笑い)。
 翻ってみると、多難な時代で、どこかで体得しなかった基礎的な技量が、将来に現れてくる。学校の教師ってのは、カラテで言うところの「20年殺し」みたいな技を生徒に仕掛けているのかもしれない。
 原因は単純である。社会をマーケットリサーチする機会の無い教員には、社会が解らない。生徒が将来揉まれる社会の荒波に対抗するために何を取得すれば良いか解らない。ただ、マニュアルに従って生徒をトコロテン式にバトンタッチする。最後のバトンを握らされるのは我々企業・団体である。
 民主主義の世の中では「書けない」、「話せない」、「理解できない」ってのは、透明な存在になるしか無いのである。「書けて、話せて、理解できる」人材を誰が責任もって育てていくのか。すべて社会に委ねられても困る。そのための教育への国費導入では無いのか。教育を国民から預託されている。そんな気概が教育関係者に欲しい。
 ニューズグループなんか見てると情報障害者は結構目に付く(笑い)。インフォメーション・ハンディキャッパーと呼ばなければ差別用語なのだろうか。

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1997.12.26 Mint