社会教育の充実を!

義務教育がもたらしたもの
 戦後52年間の学校教育の変革の中で、最も硬直していたのは6・3・3・4制の見直しがなされなかったことであろう。しかも6・3は義務教育であり、人生の1割を学業中心に生活する矛盾を誰も指摘しないのは何故なのか。
 義務教育がもたらしたものは、最低限の教育の保証である反面、そこから落ちこぼれた者(つまり、最低の下に有る者)にはまったくの無策である教育の現場の現状であろう。
考えてみると義務教育制度と言うのは生活のために学業を受けられない子どもを無くすための国民皆学校通学制度以上のものでは無いだろう。そこに6歳から15歳までの子供全員を押し込める制度そのものが、既に日教組が教条にしている「戦前と同じ」(笑い)ではないのか。
 儒教の教えの教育面での弊害は「教育は金になる」に現れている。隣の韓国なんかも高学歴目指して熾烈な競争は日本と同じ、いや、あちらはアメリカ留学まで含めて日本より熾烈である。
しかし、人間は豊かに生きるために、必ずしも今を臥薪嘗胆苦渋の時にするものでは無い。予備校に通っていたころの笑い話がある。札幌の大通り公園で軽い5月病の頃に話したのだが、
「大学に行ってどうなる」
「良い会社に就職できる」
「良い会社に入ってどうする」
「高い給料が手に入る」
「高い給料が何故良いのだろう」
「遊んで暮らせる」
「でも、今、芝生の上で遊んで暮らしてるぜ」
 日本人は、イソップ童話の蟻とキリギリスの話が好きだが、最後の蟻がキリギリスを喰ってしまうストーリーを考えれば(日本では、キリギリスが蟻に助けられるように脚色されてる)、そこまでして生きたくねぇよ、って昨今の不良たちの考えかたも分からないでもない(苦笑)。

「義務」なのに落ちこぼれたらどうする
 親は、子供を学校に通わす「義務」が有るのが義務教育で、子供には通学の義務は無い。
こんなあたりまえの原理原則が分からない親や地域社会が子供を追いつめている。それも、行き場のない方向へ追いつめているのである。そもそも、親に課せられた「義務教育」は解った。じゃぁ、子供はどうすれば良いのか、52年間誰も考えてこなかった。自然と「子供は学校に行く義務が有る」って暗黙の了解の中に問題を埋没させてきただけである。
 まず、何故落ちこぼれるかを何例か本人たちから聞いた話を紹介したい。個々人の問題であるから、特に普遍化して考えるつもりはないが、一端が解ると思う。
 最初にボタンを踏み外すのが「九九落ちこぼれ」である。小学校3年生くらいか。この「九九」だけは落ちこぼれるとどうしようも無い。その後の算数の授業がまったく解らない。国語の落ちこぼれはせいぜい読む能力が若干落ちる程度だが、「九九落ちこぼれ」はイスかノーかのジョホールバルでの山下奉文なみのバイナリー(二者択一)を迫る。
また、取り戻しのチャンスがその後のカリキュラムに無く、高校で1学期に補習ではなくて正規の授業で取り入れている所も有る(学校名は言えないが、その脇を通った時に、窓から漏れているのを聞いた。高校生が集団でニサンガロクと唱和していた)。
 次がローマ字らしい。九九で劣等感を持ち、算数の授業が解らない、いわゆる「お客さん」状態なのに、今度は国語が解らない。漢字で言えば片と造りの組み合わせなのだが、これが、また、あいうえおを新たに覚える程難しく感じる。(そもそも九九で落ちこぼれた子供の多くは、ニクジュウハチ(2×9=18)は解るが、クニ(9×2=?)ってたわいもないのだが、ローマ字もKAとTAはまるっきり別物で暗記しないとならないと思っている。
 そして、中学校の英語で「切れて」しまう。(笑い)

実は落ちこぼれ塾がある
 「進学塾」に比べて何と表現したら良いのか解らないので「落ちこぼれ塾」。これが存在する。かよう児童・生徒も多い。義務教育で国民の税金で教育を預託されているにも関わらず、落ちこぼれを出す学校も学校だと思うが、実際に落ちこぼれた子供は義務教育だけでは足りなくて、親が費用を負担して塾にやってくる。受験のためなら自己責任で良いが、この「落ちこぼれ塾」はまったく義務教育の実施機関である学校に猛省を促したい。
 で、この「落ちこぼれ塾」であるが、すばらしい。何が解らないのかを聞き出し、これが解ると何が解けるかを教える。それでも、解らない子供にはみなで教え会う。実は、日頃学校で「お客さん」な子供が、ここでは教える側に立っていたりする。もちろん、目の輝きが違う。それも週2回2時間程度で、落ちこぼれから復帰する。これって、全学業時間の2割にも満たないんじゃないの。何故、あと2割の差なのに落ちこぼれさせてしまうのか。

子供に選択の自由を与える教育を
 今の学業教育と言うのは平均値でレベルを上げる(ま、保つかな)けど、特化した多彩な人材を生み出す力や一点豪華主義生徒を生む力は弱いと思う。何故なら常に、次の学校へ進む準備でしか無いのだから。やっと大学に入って多様性を求められても去勢された牛のようになってしまった人間ばかり囲っていてはそれもおぼつかない。
 スノボード世代(いわゆるボーダー)に着目すると、彼らは八方破れなのが多い。冬はバイクに乗れないのでやってみたら面白いとか、フリーターで半年北海道に来ているとか、ま、昔の加山雄三の「若大将」とは違ったスポーツの楽しみかたをしている。
彼らの多くが落ちこぼれの経験が有る。20歳そこそこで、普通の人間は学生やってるのに、ラーメン屋の店員とか食品工場の女工だったり、ある意味で多彩で多様である。彼らが表面「落ちこぼれ」ていたのだが、ボードを通じて同じような境遇の仲間が居て、同じような価値観で生活しているのに接して、もっと、あの時(例えば高校中退)他の選択肢は無かったのかと考えているようだ。(ま、全てのボーダーがそうだとは言わないが)。
 とにかく文句も言わずに学校に通えってのは、無理な話で、これだけ情報がたくさん有る世の中で、どうしたら、オリンピック選手になれるのか、サッカーで留学するくらいになるには何が必要なのか、そのような方向を閉ざして「とりあえず、つつがなく高校までは進んで、高校を卒業してから考えろ」では無策である。
 水泳平泳ぎで金メダルに輝いた岩崎恭子には高校を出てからはなれない。あたりまえである。
 ある意味で、既存の線路に乗せてしまうのは指導者として楽であろう。でも、それが、真の指導者なのだろうか。単なる交通整理ではないのか。子供一人一人の個性に合わせて、指導できてこその指導者であろう。
 やれ、時間が無い、カリキュラムをこなすだけで精一杯、いいわけは機関車の後ろの貨車のように、繋がってくる。ただね、自分の能力不足に起因すると考えてみたらどうだろう。
 教師になりたくて教師になった者ほど使いものにならないと思う。子供が一生を掛けて生きていく世間をまるで知らない「学業教育だけのプロ」なのだから。当然、校長になりたくて教師やっているのだろうから、目が上しか向いていないヒラメである。

社会には学ぶものが沢山ころがっている
 ハングリーな野球監督と言えば、野村監督、同じようにハングリーな野球選手としては張本なんかが記憶にある。「グランドには銭が埋まっている」なんて感覚が好きだ。
教育を行うには様々な知識と経験が必要である。昔の村社会で長老が珍重されたのは、やはり「亀の甲より歳の功」、それなりの物事の洞察力があるからである。
 義務教育と言うのは特に国民から預託された教育制度である。ここで、6歳から12歳までの小学生の教師はまだしも、思春期の中学生を指導する教師は、もちっと生徒がこれから生きていく社会を学ぶべきであろう。具体的には、1年間の民間企業研修を義務づけたい。
 実は出身校である工業大学であるが、教授陣のほとんどは30歳代に民間から移籍した者が多かった。教員免許を取るために「製図」なっかんがあるのだけれど、「工業高校出の新入社員のほうがおまえらより100倍上手だ。だから、馬鹿にされたくなければ、ましな図面引け」と言われた。ま、製図にかかわる時間は工業高校の数分の1だから、しょうがないのだけれど。で、事実、職場で苦労した友人は多かった。
 生徒指導に行き詰まったら、実は生徒の答えは社会に転がってることに気づくべきである。社会から何も学ばなかった人間が人を育てられないのは自明である。
 ちなみに、何故男子生徒ばかりが「切れる」のか。それは、学業の中から将来に対する不安を感じ取っているからである。学校と社会のギャップに対応できないからである。このあたりは女性の柔軟性から比べると男ってのは、苦手である。その意味で男の子は環境バロメーターなのかもしれない。

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1998.03.27 Mint