奪いかつ奪う学業教育

苦言は鋭い切れ味で
 最近本を読んでいて、参考になるなと思う文章に出会った(複数)。その切れ味は鋭く、現在の日本の教育は先が無い。子どもの学業成績に不安があるなら、今すぐ学校を辞めさせて海外に出せとの提言が有った。
 昔の小学校では1年生には集団行動のイロハを教えるために、先生がハンカチをほおり上げて、これが床に着くまで拍手するとか、笑うとか子どもに慣れを持ってもらうアプローチから始めた。ところが、現在では集団行動が出来るかどうかの選別になっている。もはや教育では無いとの話。
 著者は僕の昔の知り合い(パソ通仲間)で、本を出した(「減農薬のすすめ」)ので買って欲しいとのことで、買って積んであったのだが、10年ぶりに読んで参考になることが多々有った。
 生活のために学習塾の講師をしている経験と現在の(1988年)の農業普及員との対比で、日本社会は現場で米を作っている百姓が畑を見ず、大学出たての指導員を先生先生と呼んで言われたとおりに営農している(全て佐賀県の水稲栽培を例に)姿に象徴される偏重社会だと読めた。
 逸話があって、減農薬に挑戦するのは地域のしがらみから、隠れて行って、それでも稲を枯らそうものなら、村八分に近い扱いを受ける地域性。その中で大学を出て農業に従事し、あらかた稲を枯れさせたのだが、付近の農家から村八分になるどころか「大学出は違う。色々なことをやってみるのだから」と言われた友人が居るとのこと。彼は「なんでもいいから、大学は出ておけ」と思ったそうだ。

学業が選別に陥る訳
 やはり何処の学校でも落ちこぼれは小学校の九九あたりから出始めるようだ。それに気が付くのが義務教育を終え入学した高校生になってから。すると、落ちこぼれは小学校3年生から中学3年まで、延々と解らない授業を受けてきたことになる。人生の6年間を無為に過ごさせた責任は親にも学校にも、いや、すべて含んで社会にある。その人間が社会に復讐したいと思っても、不思議では無い。(容認するつもりは無いが)
 1学期に1学年分のドリルを行って、小学校4年生からの6年間を高校の2年間で取り戻す。実は、これが出来たそうである。その基本は、何故これを知らなければならないかの実践から始めている。数学を教えるためには、教師自らが胴元になって競馬を開催する。この胴元は悪くて寺銭の50%を搾取する。もっとも、この寺銭からドリルを買ったりするのだが。
 オッズはどのように計算されるか、誰がどれだけ馬券を買うとオッズはどのように変化するか、確率とは何か、それが、ギャンブルにどのように関係しているのか。そんな実践の場で学ぶ。何故学ぶのかは、良い学校に入るためではなくて、このゲームをより深く楽しむため。もちろん、ゲームは社会で日常目にする行為を含んでいる。

「おしん」の驚き
 そう、十数年前NHKの朝のドラマの「おしん」。山形の貧しい農家から酒田の米問屋に来たおしんが、問屋の仕組みに驚く話。「とうちゃんが、一生懸命作った米を、集めて売るだけで、こげなに大きな倉が建つのか。米作っているより、集めただけで、こだら良い家に住んで、白いマンマ喰えるだか」。
 ま、後年のヤオハンの凋落を見ると、おしんも子育てを間違ったと思うのだが、これは余談。商売って仕組みが自分を豊かにする。そんな事がおしんのカルチャーショックだった訳。
 実は我が家の娘もこのビデオ(たしか衛星放送での再放送)を見た頃は、何故、米問屋が儲かるのか解らなかった。小学校の2年生くらいだったと記憶してている。安く買って高く売るってのが何故成立するか解らない。安く買えるのなら、直接消費者が買えば良いのに、仲介だけでそんなに儲かるのが不思議だったのだろう。そもそも、社会のシステムは複合しており、学科で区分けされたものだけで成り立つものでは無い。社会科で郷土の歴史程度の知識では米問屋の儲かる仕組みは解らない。
 ところが、この世代で既に落ちこぼれが始まっている。九九が解らなくても国会の構造は解るかと言えば、実は、算数でつまずいた子どもは他の科目も落ちこぼれてしまう。何故なら、多彩な人材を容認しない社会は、「1芸に秀でる」よりも「全てが万事」の発想をする。算数が出来ない子どもは国語も出来ない「はずだ」と決めつけてしまう。ますます、子どもは行き場を失ってしまう。

どう転んでも機会均等では無い
 総合得点において、ふるいにかけているので、成績の悪い子は全般に成績が悪い。考えてみれば不思議なことで、算数は算数、国語は国語で独自なものであれば、両者の成績に相関関係が生まれることが不思議である。近頃は、図工の成績まで主要3教科と相関関係があるのだから、正直言って学校の内部で何が行われているか不思議でならない。
 「頭の良い子は全般的に成績が良い」と言うのは的を射ているのでああろうか。一見定理のように聞こえるが、それであれば、頭の良い子は早く頭の良い子同士の学校で勉学に励む機会をあたえるべきである。なにも15歳の高校受験まで待つ必要は無い。諸外国でもイギリスやドイツではホワイトカラーとブルーカラーの区分け選別は12歳程でその門をくぐることになる。もっとも、日本と違うのは敗者復活と言うのか努力する者に門戸を閉ざすことなく、機会均等にブルーカラーからホワイトカラーへ進むことができる。
 なにも9年も義務教育で縛ることは無い。この9年の長きに渉って、社会で必要とされる人材としての一般常識から隔離されているのだがら、社会の大きな損失である。そして、その中で学校の常識、社会の非常識が培われている。

保健体育の成績が悪いとセックス禁止?
 これが、歯切れの良い(下品ではあるかもしれないが)表現である。実地に実践していない机上の勉学が、何故それが必要であるか、どのような場面で使われている知識なのか説明されずに教えられている。そして、その学業成績が機会を与える選別になっている。だから、タイトルのような極論が生まれる。
 考えてみると日本の資格制度も同じかもしれない、取るのは難しいが、取った人間が必ずしも特に無資格者と比べて優れている訳でも無い。ま、既得権証明書のようになってしまっている。いや、もっと悪い面に着目すると、資格産業が存在する。勝手に資格を作って、それを認定する利権を構築し、まんまとうまい汁を吸っている例にはいとまが無い。そして、最後は上記タイトルのような資格制度が作られるかもしれない。
 これ全て、学業を平均12年も(考えてみると、12年も通学って行為を行っていたってのは驚愕する。しかもたいした疑問を持たずに)慣れ親しむと性格まで変わってしまって、特にそのような資格制度が有っても不思議でなくなるかもしれない。
「安全な性生活のために性活指導員資格を取りましょう。今なら、基礎体温計が付いてきます」なんてね。
 何事も資格が有って、一定の成績を修めた者だけが取得出来る制度そのものが、この本題の「奪い、そして奪う」元凶なのである。誰でも自由に行って良いものを、有資格者のみのものとし、その選別をペーパーテストで行うことに違和感を覚えない国民を育ててきたのは、戦後50年の教育の最大の弊害である。そこには、既得権益を作り守る仕組みが無理なくはまる。がしかし、個人の自由は束縛されているのである。
 車の運転のための免許証を、多くの人は自動車学校で取得する。
何故か? 無免許では車を運転してはいけないから、免許が必要だから。たぶん、現在自動車学校に通う多くの人間はそう応えるだろう。これは問題である。機械をオペレートし、万が一にも他人を傷付けることなないよう、その操作に成熟するために自動車学校に通い学ぶのである。がしかし、公安試験免除だとか、追加料金無しとか、本来の目的とはかけはなれた制度の既得権が成立している。  もっとたちが悪いのは、免許を与えた責任が問われない制度欠陥であろう。お神の与えた資格は、その真贋を問われない超法的ものなのだろうか。資格ばっかり氾濫して、それを誰も変だと思わない世界。そんな世界を作ったのが長すぎる学業教育の弊害である。
 自己責任の社会を形成するためには、まず、現状を認識する必要があろう。
 学業教育は、ペーパーテスト至上主義により資格ビジネスを派生させ、利権を作り守る仕組みを容認し、そして、全ての自己責任においての行動を奪ってきたのだから。
 電話のモジュラージャック1個取り替えるのになんで資格が居るんだ。100mWのトランシーバーに届け出が居るのか。ジェットスキーになんで船舶4種の免許が居るんだ。

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1998.05.13 Mint