「時代」歌っています

中島みゆきの「時代」のことです
 彼女の母校(大学)で非常勤講師なんかを始めたものだから、自分が学生だった時代を思い出しています。基本的に今の学生も当時も同じ部分が有って、これは一安心。また違うところも当然あるのだけれど、これは将来を託すことになる次世代への不安だったりましす。
ちなみに僕は性別による「担う事柄」なんかは全然認めておらず、以後の内容も女性に限ったものとは思って居ません。「女の腐ったような男」も居れば「男まさり」の女性も居る訳で、ま、性差に立脚した論議は無意味なのですから。
 講義が休講になると「やったぁ!」って反応は社会人歴が長い僕としては違和感があった。考えてみると有る筈の講義が無ければ自由時間が増える訳で、ま「やったぁ!」となっても何も不思議は無い。が、待てよ、勉学の機会が失われた(社会人なら、アポイントメントが土壇場でキャンセルになると「残念」と思うのだけれど)とは思わない。もっとも、考えてみると我々の時代も同じだったから、あえて批判はしない。つまり、学生気分とは何よりも自由時間を大切にする「時代」なのだから。
それよりも問題なのは、大学も含めて教育の場が教える側と教わる側の慣れ合いで成り立っている「虚構」の場であることが、我々の時代と同じように継承されている事実。まったく縄紋式のまま大学は何も変わっていない。学生運動と言う台風が過ぎ去るのをひたすら待ち、過ぎたら元の縄紋式に戻っただけ。
このシステムが学生にとっても大学にとっても望ましい形態なのだから、これまたショウガナイ。が、それを「教育」と呼ぶ社会、学費を出す親の世代は詐欺に合ったようなものだ。もちろん、詐欺の確信犯が自らの子どもでは訴え出ることもできないが。
昔は自分も大学に通うことで生計を立てていたので、批判はしないが。
で、結局何がそうさせているかと言えば、教える側、教わる側に共通の「3不」が有り、これが両者の絶妙のバランスを形成しているのが今のキャンパスと言える。
その「3不」とは
勉強 熱心 親切

不勉強
 学びの館であるはずの大学であるが、実は教える側教わる側双方が大変に「不勉強」である。これは我々の時代から同じことであるが。
よりよき社会人を育むのが国民から預託された(税金を使う)教育の原点であろう。がしかし、そこには社会から隔離された別世界化を進めている。で、社会は経済活動であるから、そのような仕組みの出身者は再教育を余儀なくされる。それは、「楽しいキャンパス+地獄の卒業後」として現れるのだが、とりあえずそこへの対策はモラトリアム(先送り)である。そんなことは社会では沢山有ることなので、特にキャンパスに限ったことでは無い。
しかし、問題なのは、キャンパスに集う双方が「不勉強」な部分である。
学ぼうと思っていない学生に、学ばせようと思っていない講師。これが許される社会は絶対おかしい。不勉強な講師や学生を排除出来ない「教育システム」は社会は容認しない(見えないから問題が起きないと言う部分も含めて)。それが表面化する時期が早いか遅いかである。ある意味で、受給者と供給者のバランスで成り立っている「教育産業」は否定しない。ただ、それが、受益負担な仕組みと言いながら各種公的税金が流れている事実を直視すれば、「当事者」としての「答弁」には国民的コンセンサスを得られる合理性が必要と思う。(実は、既にコンセンサスは有って、それが今の大学の形態であると結論しているのだが。つまり、学生と教授のための大学であり、国民が期待する大学で無いのなら、国家予算(税金)の利用を求めないことである。それが出来ている大学は皆無ではないだろうか。)
しかも、教える側の「不勉強」によって、「教える側=社会に送り出す側」の論理に欠け無意味な「講義」がはびこっている(いやいや、教養とは実利的でなく、文化形成であるとの意見にはうなずくが)。ただ、受験者の中の合格者としての学生は自分の受けたい講義を選別し終わっていると考えるか、そもそも、合格者としての学生のニーズを再度考えるべきなのかで大きく講義のスタンスは変わるはず。残念ながら、小学校レベルの型にはまった「義務教育」(これって、先生が生計のために教える「義務」を負うってことではないかと最近拡大解釈している)では最高学府としては不十分ではなないかと思う。
ま、私の論理で行けば、「仲間で楽しいことは、勝手にやったら良い」ですので、別にかまいませんが、基本的に大学は社会を知らない学生に社会を熱心に教えるべきであり、そのために教えるが側は社会を良く知るべきである。どちらかと言うと、この点で不勉強である。
 長くなるが、僕が学生時代に教わった教授、助教授、非常勤講師の講義を思いだしているのだが、一番参考になり今でも覚えているのは「大学を出て職場に配属されて、製図をやらされる人も居るが、これは絶対工業高校出身者に負ける。これで自信を無くして会社を辞めた先輩も居たのだが、いやなに、雇う側は5年、10年のスパンであなたたちを雇うのだから、そのスパンで恩返しするくらいの気概を持ちなさい」と言われた、ゼミも取った電気工学の武田郁夫先生の言葉。また「大学で教わる英語はコミュニケーションの英語で、私の英語の雑談を1年たてば解るように耳を鍛えてあげます」と言われた非常勤の(たしか、北見の教会の牧師さんだったと思う)ドイツなまりの激しい英会話の非常勤講師の方の言葉。
なんで、25年も前の(あ、私、北見工業大学の第6期卒業なんです)話が記憶に残っているかと言えば、受ける側(当時学生でしたから)からとても新鮮な話だったからです。話された「予言」を実は実体験したからより記憶に残っているのでしょう。
その意味で、大学に行って、そこで人との(学生と講義)出合があって、今の自分が有ると認識できる事柄でした。

不熱心
 大学の「単位取得」とは何なのだろうか。レッテル張り?
これからは新しい価値観の日本社会が形成される。そのなかで金を払って教えて貰う社会に安住できるのは22歳までである。その後、「自律」していかなければならない。がしかし、自分の「自由時間」獲得が最優先で、人とのかかわりが(例えば大学の「講義」)おっくうに感じられるのは少し違うと思う。
結局、図式に則って教える側は「どんな馬鹿にでも教えられる」、教わる側が「自由時間が欲しい」。これでは何も前に進まない(が、経済活動としては成り立つ)
「不熱心」は学生側に顕著な姿勢である。
バブル全盛の時代には大学でも講義の最中の学生の雑談が多く、講義で生計をたてる人はこれを無視してシャベリ続けたそうである(我が講師を勤める大学ではこのような事は無いが)。つまり、大学で何も得なくても「それなりに」社会人に成れる時代背景が「学生主導の講義」を招いたのであろう。しかし、敵(講師)も「さるものヒッカクもの」このような突発事態が過ぎ去るのを「台風一過」の精神で生き延びてきたわけです。
講義に取り組む姿勢、さすが学生側に「不熱心」が有るのはいなめない。
アメリカの州や自治体が推し進める「コミュニティ・カレッジ」これを日本に導入したい。社会人の目にされされる最高学府それこそが、生き残りの最後のカードだと思われる。
社会人歴ウン10年の僕にとって、大学は甘い学生と甘い講師でなりたっている別世界に見える(一般論で特定の組織を指しているのでは無い)

不親切
 社会人も参加(受講)出来る大学として大学をオープン化する場合、絶対的に問題になるのが「講義の質」であろう。個人が費用を負担してでも学びたいと思わせる魅力が有る講座はどれくらいあるだろうか。たまたま無知な(大学卒業の認定が欲しい)人間を集めているから成り立つ(既得権)だけで、社会的価値は皆無の講座が大半ではないだろうか。
しかも、20年以上も前の学生紛争華やかな時代にもこのテーマには触れられなかった。それは、「キャンパスの既得権」として暗黙の了解だったのだろうか。
企業が費用を負担してでも受けさせたい講座は「自衛隊体験入学」くらいだろう。大学に企業が費用を負担して社員教育を依託する魅力は無い。これって、何処か構造がおかしい。国の費用(税金)が得られるのに企業の、個人の費用が得られない機能は社会的価値が有るのだろうか?
前述したように、「文化は経済行為では無い」との反論も有るだろうが、人間の歴史をかえりみると、文化は経済が豊かでパトロンが現れる時代に旺盛になっている。まさか、クラシックの交響曲の数々が作曲家のボランティアでなされたと思っている人間は居ないと思うが、結局パトロンによってある意味「不生産行為」である「文化」は創造されていた。
がしかし、今の大学のパトロンは税金である。文部省である。
ちょっと待ってよ。我々の時代は大学の文部省からの独立、それぞれの大学が学生の自治のもと文化の担い手として個性的に発展することを望んだのに。
大学の自治を学生が叫ばなくなった時に、大学は監視機能を失ったようだ。そして、社会に必要な機能から離れ、自分に都合の良い機能になってしまった。時の総理大臣でああった佐藤栄作が「結果として」果たした役割が現在の大学である。そして「民青」や「ブント」に代表されるセクショナリズムが学生運動を穏便な崩壊に導いた結果である。
しかも、彼らは(佐藤栄作も民青も)結局大学を形骸化してその責任を負わない不親切な奴である。

僕の「大学」への夢
 インターネットは素晴らしい情報処理機能を持っている。昨年(1998年)カリフォルニアのマーク夫妻から「北海道を自転車で旅したいのでよろしく」とメールをもらった時に、これを生かすホスピタリティこそ情報の機能だと思った(これは、1987年に、ネットワーキング・フォーラムで大分で平松知事が述べていた概念の受け売りなのだが)。
「情報」の日本語の作者は森鴎外である。明治の時代に「INFORMATION」に該当する日本語が無かったので「情報」を起こしたのである。
考えてみると日本は単民俗に近く、「情報」に該当する機能を必要として居ない社会だたのだろう。だから森鴎外が造語をせざるを得なかったのだろう。
大学で講義を受け持って感じたのは、受講する学生の素晴らしさである。これは学生が素晴らしいのではなくて、自分の人生の「一期一会」のなかで出会えた素晴らしさかもしれない。個々の「お嬢様」との情報交換にはまだまだ時間が必要かもしれないが、基本的にここも「大学」なのだから、その社会的使命は縁あって非常勤講師を受け持った人間として勤め上げたいと思っている。
この子達が、10年後に情報関係の仕事で社長として勤めるベンチャー企業を起こしてくれれば、僕の使命は達せられたと思う。くれぐれも
不親切
不勉強
不熱心
が無き人生を歩まれんことを願う。

PS:あとがき
 これを何かの弾みで読んでしまった「お嬢様」達(複数)に贈る言葉なのだが、社会は複数の価値観で動いている。その中で自分の価値観を主張するために戦う相手は多い。
君達が(あ、僕が女性を「君」表現するのは過去に2回しか無く、1度目は今の奥さんで、2度目は....)生きて行く時代は、男女の差は無いと公的に叫ばれる時代なのである。がしかし、僕は男女の差は歴然としていると思う。女性は結婚によって「女」→「妻」→「母」と変化していく。男は悲しいかな生涯「男」でしかない。ま、「夫」→「父」くらいまでであろうか。
で、女性が担う社会的責務は実は子どもを生むことだけでは無い時代に君達は生きている。故に社会を学ばなければならない。それが、僕の責務と思っている。
しっかし、女性が人生を渡るにはここは「お嬢様」が多いなと感じている。
オリンピックで「今まで生きてきた中で一番最高でした」と言った岩崎恭子さんはその後マスコミ攻勢から自分を見失ってしまったが、アトランタで納得の予選落ち。これが岩崎恭子の姿だと自分が納得してる笑顔は素晴らしかった。
あの空白の一日で巨人入団した江川卓も実は高校野球で作新学園のピッチャーとして、雨の試合で9回満塁からから押し出しのフォアボールで負けている。このときの江川の顔は、満塁策を指示して負け、泣きじゃくるキャッチャーに向かい「いいよいいよ、しょうがないから」と自分に言い聞かせる素敵な場面が有った。
結局自分を主張する自分を大学時代に形成することが大切なのだよ。最後の砦なのだから。社会に出てから考えたのでは、気が付けば30歳になるのだから。

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1999.04.30 Mint