理工離れに思う
医師の世界も深刻らしい
根っからの工学屋だから特に若者の理工離れは嘆かわしいと思っていたのだが、最近この道30年のお医者さん兼工学屋さんの方と話す機会があって、どうも理工離れと言うより科学離れと呼んだほうが良いと思えてきた。何故ならば若い世代に好奇心が感じられないという点で意見が一致したから。
ともに、重ねる年齢故の若者論が垢のように積み重なっているのは重々承知。にもかかわらず、やはり好奇心を持つ若者が少ないと感じるのはこの積み重なった垢のせいでは無いようだ。
中教審のスローガンが「たくましく生きる力を育む」と表記されたのは4年前。それまで教育の場に「生きる力」なんて用語は使われた事は無い。いわく「国際人」とか「高学歴社会」とかであった。先に書いたように田原総一郎シンパの僕はこれに「一人で生きる力」を加えたい。青少年に限らず一生を通じて「一人で生きる力」を育むことが必要と思う。
もう10年も前になるか、札幌医科大学の先生に医師の国家試験の問題を見せてもらったことがある。その試験問題には「画像集」なんてものが付随していて、最新の検査機器から出される検査結果が色や形で表現され、それを読影するのが試験の一部になっている。もはや西洋医学ここに極まれりと言った感じだった。検査機器の無い場所で医者は医者たりえない。そんな感想を持った。
元気出してね、気にすることは無いの使い分け
細分化された医療教育(それ自体が「生命」として人間を扱わず、「生体」としての扱いで、医者も獣医も同じになったと僕は思っているのだが)では、「森に入りて木を見ず」に陥り易い、がしかし、教育の場での片寄りを支える人間の常識が過去には有った。
過去の医師は(現在も居ると信じているが)患者を勇気づける術を知っていた。疾病を治癒するのは医師と患者の共同作業なのだから。
釈迦の言葉に「人を見て法を釈け」と言う言葉があって、まさに、情報を伝達するのは相手の状況を把握して的確に伝える必要がある。また、そうでなければ伝わらない。しかし、自らの見解を滔々と述べる(あ、このホームページがそうか(笑い))のでは決して伝わらない。
旧来医学生の教育ではこの部分は「常識」に委ねられ、特にカリキュラム化する必要は無かった。何故なら、常識は教えるものでは無かったのだから。
夫を癌で亡くし、一人暮らしのおばあさんに診断の結果重度の肝機能障害が見つかった場合担当医師としてどう対処したら良いのか。究極の選択。
僕なら「肝機能の値が少し悪いですが、気にすることは無いです。少し薬で改善できると思いますよ」と言う。でも、検査結果だけに依存すると「肝機能の数値が悪いけど、ま、頑張れば良い事もあるから」と慰めなんか他人ごと、相手を精神的に追い込めてしまう。
時代背景が人類の目指すものを導く
思春期と呼ばれる年齢の頃は社会から受ける影響は大きいだろう。その年齢の頃に社会がどのようであったかが個々人の志向をそして人生の針路を決めるのかもしれない。
「昭和一桁恐るべし」と書いたのは、この世代は思春期に社会制度の大変革を経験している。軍国主義から民主主義への180度の転換である。先の田原総一郎さんの本におもしろい逸話がある。昭和16年太平洋戦争が始まり軍国主義まっさかりの時に教育勅語を間違えたと教師に殴られたことがあった。この教師は神国日本の次世代の育成におおいに貢献したと地区の教育委員会から表彰された教師だった。昭和20年の敗戦の後、数年して新聞に目をとめるとこの教師が「民主主義の教育に貢献した」と表彰される記事が目にとまった。なんだかなぁと皮肉を込めて「やはり、最高の教育者だったのだ」と田原総一郎さんは時代を語っている。
話が逸れた。
我々(私や、先の医師)の世代は思春期は1964年から70年くらいだろうか。この時代は確かに科学の時代であった。1963年11月に初めて日米テレビ衛星通信が行われ、最初に流れた情報はJFKの暗殺であった。今でもアメリカでは「JFKが撃たれた時に君は何をしていたか」が我々と同じ様な世代の共通の話題になるそうだ。ケネディが冷戦に終止符を打とうと「人類」を共通の認識にし、地球人感性を得るためにアポロ計画を推進し、60年代のうちに人類を月に送り込むと決めた政策は1969年7月に実現することになる(皮相的表現にとどめておく。実際は政治的にアポロ計画を利用する必要が有ったのが事実なのだが)。
無人探査機が月に打ち込まれ衝突直前まで画像を送ってきたり、ついに軟着陸を果たしたり。宇宙フロンティアを支えたのは科学技術、特に工学であった。そのあたりから僕は工学志向だったのかもしれない。
手にした物が好奇心をくすぐる
Curiosityを持つにはその対象が必要である。対象無き好奇心は無い。我々の時代にはゲルマニューム・ラジオが有った。電気が無くても音声が聞こえる。電波ってエネルギーが自分のラジオのイヤホーンを鳴らす。そんな不思議な現象を体験して電気ってなんだと興味が沸く。
目覚まし時計なんかもいくつ壊しただろうか。そこには分解すれば何かが解る雰囲気があった。特に興味が有ったのは歯車をどのように使えば決まった時間にベルが鳴るのかだった。
話を本論に戻そう。
1960年代はアポロ計画に代表される科学技術と工学の時代だったのかもしれない。とすると、それ以降の時代はどう表現されるのだろうか。例えば今の30代後半の世代が過ごした1970年代は。
これは社会構造の変革の時代だろうか。公害とか連合赤軍や学生運動に代表される社会変動の時代と言えるだろうか。そこには日本を動かす人間になりたいと官僚志向人間でも現れるのだろうか。
1980年代はどうだろう。
この時代は日本の国際化の時代と言えるかもしれない。西欧の金融構造に日本も追従し開かれた市場の仲間入りする時代かもしれない。この時代を受けて金融、証券を志向するのかな?
1990年代。
これは見えない。どういう10年間だったのだろう。世紀末の特徴なのか何もない10年だったような気がする。この時代に思春期を迎えた世代(あ、うちの娘か(笑い))は何を社会から得たのだろう。ファミコン、スーパーファミコン、プレイステーションに代表される「家庭でゲーマー」の世代なのかなぁ
悲しい事に、消費者の時代が続く
青年は荒野を目指す。これは五木さんのデビュー作、「さらばモスクワ愚連隊」に描かれた若者の姿だった。目の前に「荒野」が無いと若者は何を目指して良いのか解らなくなる。時代は若者に「荒野」を与え続けなければならない。何故なら、逆説的だが「青年は荒野を目指す」のだから。
本来、自然のままでも荒野が開けるのだが、今の時代は硬直化したのか若者に荒野を与えない。過保護で与えない面もあると思うがやはり若者には「荒野」が必要だ。
結局、過保護で荒野に向かう若者を潰してしまっているのが今の理工離れではないのだろうか。青年は荒野を目指す。青年に荒野を用意するのは社会の責任なのだろう。荒野を用意出来ない社会は、ローマ帝国のように滅亡する。今の日本社会は韓国と「合併」(笑い)してしまう程に魅力が無い。それは何故かを若者を育てる世代が真剣に考えなくてはいけない。
インターネット関連で会社を興してストックオプションで一儲けする。そんな「荒野」に若者が群がるのは情けない。最近書店で目にする「旅もの」の多くが「自分発見の旅」みたいな紀行記になっている。ま、僕に取っては悪口罵倒の「兼高かおる世界の旅」だが、あの時代は自分では無く相手を描いていた。僕も自転車で訪れる市町村では相手を描いてきたつもりだ。
結局、荒野無き若者の苦悩って視点で現代を語る視点が不足している。逆に若者は刺を抜かれ毒を抜かれ人畜無害化している世間を恨み、発起すべきなのだが、この意見は20年遅かったかな?