ハングリーの系譜(武田鉄矢)

武田鉄矢が憎めない
 最近の傾向で本はブックオフで100円コーナーを漁っている。結構名著があって昔神田の古本街ってのはこんな感じだったのかなぁと思いながら1時間も100円コーナーを総なめしている。
 そんな折り武田鉄矢の「母に捧げるバラード」を入手した。その前にエッセイ集の「さらば愛しきひとよ」(集英社)も入手していたのだけれど、こちらのほうはどうも不完全燃焼気味だった。この感覚は前に別な件であって、娘が友達から「ホームアローン2」が面白いと聞いてきてレンタルビデオ屋で借りた。実は前作「ホームアローン」を見ている人にだけ解る部分があって、こちらは前後逆に観ているので不完全燃焼になる。そこで、あわてて前作を借りるべくレンタルビデオ屋に走ったことがある。
 さて、つくづく武田鉄矢は憎めない奴だなぁと思った。それと同時にこれは「青春記」なんだ、そして当時の福岡(博多と書かないと怒る人もいるかな)がチューリップや泉谷しげるのような時代をリードする芽があったということ。学生運動が破綻して70年代が無目的であった時代に彼らが演じた、もしくは必然的に演じた時代の流れを当時知る由も無かった。

元気な地方が無ければ日本は駄目になる
 あの時代は広島の吉田拓朗、福岡のチューリップ、泉谷しげるの東京デビューによってフォーク業界が形成され、出戻りの井上陽水なんかが合流してフォーライフを作っていく流れが武田鉄矢の青春記として描かれているのが「母に捧げるバラード」である。
 結局、東京には文化が無く、地方の文化を「東京発」に替えて、かろうじて東京が情報の発信基地になっているのだろう。情報は発信するがそのリソースは地方から得られたものってのが事実だろう。
 ま、当時割を喰ったのが松山千春や吉幾三の北方系(笑い)だったのかもしれない。
日本ではまだメィジャーになるには「上京」が必要と信じられている。北海道で言えば津軽海峡を渡って本州に入り東京に行く事が意気込みであり積極性の証しだと賞賛される雰囲気。僕は東京で生活をした経験を持たない。だから、東京を知らないかと言えばそうでもない。年に数回出張で出かける以外に結構ネットワークの友人が札幌を訪れる際に情報を仕入れている。
 で、結局、大阪は経済の中心として栄えたが東京は情報の中心として、今まで巧くやってきたなぁと感じる。それはテレビ、ラジオの系列化が東京を支えてきたのだ。東京の価値とは地方から見ると「情報を束ねる」機能だけである。正直言って北海道で大阪の情報を得るには東京経由でなければ得られない。
 考えてみると本当の意味で情報発信に必要なリソースは地方にあるのではないだろうか。その情報を全国区では価値無しと思っている地方の人々から入手して発信する「業」が東京にはあるのかもしれない。

当時の福岡と当時の北見市
 我が大学は遅れているのか1973年に全学バリケードが実施されていた。当時大学の寮に住んでいた僕はテレビの有る部屋を渡り歩いて情報を得ていた。大学がゼネストで閉鎖されている状況で人気があったテレビ番組は「木枯らし紋次郎」再放送だったあの時代。
 福岡から東京へ出るのか出ないのか。そんな悩みを持ちながら福岡の町でフォークソングを歌い続けた武田鉄矢。そしてやがて東京に出て苦節1年「母に捧げるバラード」で100万枚のヒットを飛ばす。
東京で花を咲かせたと言うのだろうか。しかし、この「母に捧げるバラード」は九州、北海道で火が付いてヒットした曲だった。情報は東京から発信されるが、その情報は地方から集まったものだ。東京は情報発信しているように見えるが実は地方からの情報を右に左に投げ変えしているだけなのかもしれない。
 当時の北見にも全国に向けて旅だった人が居た。今だと口にするのも恥ずかしいが「沢田亜矢子」である。彼女が北見市民会館で「あざみの歌」でデビューおひろめした時に何故かそこでリアルタイムで見ていた僕が居る。その後、加山雄三主演の「高校教師」なんかで下宿の喫茶店の従業員役で出ていたのをしっかりチェックしていた。
結構、身近に東京へ出て行き、成功した人は多かった。「ふきのとう」なんかも武田鉄矢率いる「海援隊」の弟グループみたいなものだった。

どん底からの視点
 「母に捧げるバラード」で紅白歌合戦出場を果たした2年後。大晦日の夜を友達のスナックの皿洗いで過ごしている武田鉄矢が居る。4ヶ月仕事が無くて8ヶ月給料を手にしていない。ブティックで働く妻は妊娠し、もはや家計を支える者は居ない。そんな中で2ヶ月後に山田洋次郎監督の「幸せの黄色いハンカチ」の仕事が舞い込む。
この映画は僕も印象に残る映画で、たぶん高倉健が笑った姿を見せた唯一の映画であろう。たまたま「マッドマックス」が面白いと友人に教えられて、忙しい仕事が一段落した時に映画館に行ったら「マッドマックス」の上映は終わっていて「幸せの黄色いハンカチ」が上映されていた。なんとなく時間を余していたのでそのまま映画館に入って見た映画だ。北海道を移動していなければ途中で席を立ったかもしれない。最初の失恋して泣く武田鉄矢のシーンからして暗い。チューリップの歌う「さぁ、出かけようファミリァ」あたりで少し落ちつく。
夕張の「幸せの黄色いハンカチ公園」には、このファミリアが置いて有る。真っ赤なファミリアが年月を重ねて朱色に変わっている。でも、僕はこの車を見たときに「さぁ、出かけようファミリァ」の歌のフェーズが出てきた。それくらい印象に残った映画だが、その背景、特にどん底の武田鉄矢とチューリップが歌うファミリアの不思議な関係が今回本を読んで解った。
 「あんたが大将」はそんなどん底から見た世の中を書いている。ただ面白い歌では無い。かつて吉田拓朗が描いた「自分感情路線」を軽快なリズムで被っただけで、心情を吐きだした曲になっている。

結局先生になった武田鉄矢
 若い人には武田鉄矢は「3年B組、金八先生」の姿しか知らないかもしれない。このような歴史を(彼は「旅」と書いているが)経て小山内さんの脚本によりテレビの中で先生になっていく。
実は武田鉄矢の学歴は福岡教育大学中退である。学校の先生を目指して教育実習を経験して大学を休学して東京へ出たのである。
小山内先生には自分が聾唖学級の教生をしていた時の話をしたことが記憶に残っていたのかもしれない。学校の先生を目指して、自分の授業を作ろうと悩んでいた時代の経験がやがて「金八先生」に生きる。そもそも、金曜日の先生ものの番組だから主役の先生は「金八」って安直なネーミングが局の期待の低さを表していると思えるのだが。
実は、この出会いで教師になれなかった教生が教師になるのだった。
武田鉄矢が30歳の頃、母親から電話があって「国立大学は12年で卒業できんと退学するとよ。退学届は自筆のサインが必要だから、書類送ったから書いて戻しいな」と連絡が入る。母親は教師になる息子を夢見て12年間学費を払い込んでいたらしい(当時の国立大学だから月1000円なのだが)
今年(2000年3月)までこの金八先生の、たぶん、最終回となるクールが放送されていた。何時になく理屈っぽい(スタート時点から年末頃まで)ストーリーで受けなかったが、年が明けるとともに、「正論で説教する金八」に戻ってきていた。その正論を突く朝日新聞との論争を番組の冒頭にちらつかせながら。
人を教えるというのは難しい。しかし、あのてこの手で生徒をモルモットに実験する馬鹿な教師は辞めてもらいたい。多くの生徒の犠牲の上に立派な教師が育つのは教育の目的では無い。優秀な生徒が育つために言葉は誤解を招くと思うが「滅私奉公」できる教師が大事なのだ。
 福岡教育大学で教師になれなかった武田鉄矢が、何故、テレビ番組とは言え教師のはまり役になれたのか。それは単純である。武田鉄矢の人生の積み重ね(旅の積み重ね)が人の師たる風格を武田鉄矢に備えたのである。
 「贈る言葉」の中の「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」の歌詞は、人生(旅)を重ねた者にしか解らないのかもしれない。「あなたが好き」と女性から言われて、その女性の人生をふと思い優しくなれるのは、結構、自分自身も旅を重ねてきたなと気がついたりするからだ。そんな旅をこれからも続けて行きたい。

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2000.04.10 Mint