ネオむぎ茶がリアルタイムで

あの「キャットキラー」が容疑者らしい
 連休中の事件だったこともあり、特に4日は警察突入の瞬間を見たくて徹夜状態だったので、テレビをつけっぱなしにしながらインターネットでホームページを検索していた。
「どうも、キャットキラーが怪しい」。そんな書き込みを目にしたのは午前零時を過ぎた頃だろうか。
 インターネットを「空の洞窟」とかヒョーロンする人が居るが、実は情報の洪水の中で情報を的確に交通整理できる能力が自分自身に無いと表明しているようなもの。もっとも、情報が欲しいってcuriosityが無い人間にはインターネットも無用かもしれない。実は情報を上手に入手する力がこれから必要になるのだが、その答はインターネットをこまめにアクセスして入手するしか無い。
 ヒントだけ言って置くと、週間ポスト、週刊現代レベルの情報をインターネットで入手するには「2チャンネル」がある。もっとも、ここは「情報の池」で、全部読んでも意味が無い。ここをヒョーロンする場所を見つけて、ここから真偽の定かでない情報の池のエッセンスを得るのが良いだろう。そのような場所も探せば見つかる。
「17歳の無職の青年」このキーワードは絞り込みに最適な情報といえる。17歳で無職は1000人に数人ではないだろうか。これに「ネオむぎ茶」が合致する。しかも、犯行の前に「ヒヒヒヒ」の書き込みで新しいスレッドを2チャンネルに上げている。ここにはメールアドレスもリンクされている。

情報の真偽を判断するのは自己責任
 警察の突入は明るくなった午前5時前後と思っていたので、その前にいろインターネットで調べまくった。非常に薄い可能性が解ったが、まさか今西鉄のバスジャックをしている少年の過去の書き込みと信じる根拠は得られなかった。
 違うのか。本当なのか、まったく解らない。あたりまえだが、本当であっても嘘であっても僕の生活になんら関係ない。
事態は夜明けに向けて徐々に動きだした。NHKのカメラが気になるのか機動隊のバスがテレビの視界を遮る。警察からは「容疑者がバス内で情報を得ている可能性があるので報道内容に気をつけて欲しい」といった談話が流れてくる。いよいよ突入準備が始まるのでマスコミの報道を抑えたいのだろう。窓から説得している警官が容疑者がワイドバンドレシーバーかなんかで情報を得ているかどうか見ている訳で、「可能性がある」なんてのは考えられない談話だ。
 日本テレビのカメラは警察のバスで遮られていない。バスの後方からの映像になっている。4時50分頃、この日テレのカメラが梯子を持った突撃隊30名程をとらえている。暗視カメラも徐々にノーマルカメラに切り替わっている。夜明けが近い。
 突撃が近い。わが家もビデオを回し始める。動きがある度に回していたのでテープの残り1時間程か。6時になれば定時ニュースに切り替わるので、このリアルカメラ(笑い)も中断されるだろうから、このまま回し続ける。
 そして威嚇弾の爆発、乗客の救出、容疑者の逮捕となる。
ビデオを再生して突撃の瞬間を何度か見直すが威嚇弾の発射が何処から行われたのか解らない。最初にバスの左側から近づいたグループがバスのガラスを割る。この後、一瞬の間を置いて威嚇弾が爆発する。この爆発の時にバスの右側の隊員のち一部に驚きの動揺が見られる。と、言う事はバスの右側からは威嚇弾の放り込みを事前に知り得なかったのか。
しかし、その後の報道によると突撃の合図は運転席から説得を行っていた警官が左手からハンカチを落としたのが合図とか。これは、バスの左側に居る隊員には見えない。
 とまあ、何故ビデオの判読結果を書いているかと言えば、これはリアルタイムで送られた画像で、その画像の読みは場面が限られているとは言え、分析に熱心になれる。がしかし「ネオむぎ茶」については、真偽を調べようが無い。だとすると、判断は保留するのが正しい選択だろう。

連休があけて、やはりネオむぎ茶だったようだ
 いろいろなボードでのコメントを見るとやはり「ネオむぎ茶」が容疑者らしいことが判明したのは連休があけた頃。まさか掲示板の番号取りをしていて1000番が採れなかったのがナイフ片手の引きこもり、家族の相談で精神科へ入院。連休中の自宅帰宅でバスジャックと一連の流れがインターネットに足跡がある。これって、いままでのタイプとは違った犯罪心理じゃないだろうか。
 精神科への入院。いままで自分と外界を結んでいたインターネット(の2チャンネル)との隔離。その情報過疎を本人はどのように感じていただろうか。もちろん周囲は何も解らない。外界とのチャネルを切ったことにも気がつかない。
 インターネット症候群とでも言うのだろうか、そこには別の人間関係(僕は、そのような別な人間関係と思う事にネットワーク社会の段ずれがあると思うが)があり、別な帰属社会がある。がしかし、ここと切れた苦痛は他人には解らない。
「バーチャルな現象を実生活と同じく捉えて」ってヒョーロンは何処かおかしい。バーチャルってことは仮想実体験なのだから、それを実生活と同じに捉えるのは当たり前の事で異常なことでは無い。

さて、ネオむぎ茶を理解できる人々
 うーん。誤解を受けるかもしれないが、わしは解る(笑い)。
もちろん、バスジャックの事では無い。
人間は一人で生きていく力を持たなければならない。がしかし、それは目指すべき理想であって、現実には自分を認めてくれる場面で一番力を発揮する。武田信玄が「人を育てるには、木を育てるように」と言ったのは、日々の行動が長く弱く蓄積されて結果が出るのが人と人の関係、特に上司と部下の関係だと思っていたのうだろう。
掲示板で1000番を取れなかったことが、青年の家庭でどれほど理解されていただろうか。僕なら娘が「1000番取りに負けた」と言ったら「結構空いてる、ここなんかの掲示板はどう?」なんて言えるが、この青年には解ってもらえる部外者が居なかったのか?
 ヴァーチャルと現実の境目の何処に自分を置くかがそれぞれの行動に現れると思う。瀬戸際と言ったら良いのだろうか、結局、ヴァーチャルの壁の向こうに居るかこちら側に居るかは「紙一重」と解る解説者がテレビに居ないのがテレビの限界だろう。
 私の情報源では「ネオむぎ茶」は沢山居るネットワーク・オタクの一人でしか無い。特別では無い。バーチャルな世界と一般社会は同じものである。がしかし、バーチャルな世界に「電波」してしまうか、バーチャルな世界も一般社会と同じと感じるのかは、実は生活環境によるのだろう。
 ま、バーチャルな世界と実社会を繋ぐ環境が狭いと(例えば、不登校)情報が自分だけで消化されて、ある意味で実世界を避けてバーチャルで生きても違和感が無いのかもしれない。
 本当は実生活を補完するのがネットワーク技術なのだが、補完どころか全部「のめりこみ」になる危険をはらんでいる。その意味で、昔、大分の「コアラ」でネットワーク利用の姿勢について1998年のネットワークフォーラムで大分県知事の平松さんが言っていた「ホスピタリティ」が今のネットワークには欠如しているのだろう。
 インターネットになってから変わったのは「解り合える」よりも「もてあそぶ対象」に掲示板が変わったことだろうか。それは「匿名性故?」いやいや、年齢層が下がったせいなのですよ。実社会予備軍というか経験の無い人々がヴァーチャルに集まると、それなりの世界になってしまう。それを大人は解らない故に、異常だなんて騒ぐ。
 「いじめ」なんてのは、大人の規範がもたらした子供の世界でのミラーみたいもの。ミラーはミラーだが、実社会に割り込んでくる。そんな鏡の世界の出来事が「ネオむぎ茶」に結びつく。

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2000.05.13 Mint