シドニーオリンピック亮子の誤算、尚子の没落

シドニーオリンピックのネタなんだけど
 わかりやすいタイトルとはおよそ言い難いのだけれど、この2名の名前で、気がつく人は気がつくだろう。
 シドニーオリンピックで一番感動的な場面を選ぶ番組がNHK衛星放送で流されていたが全然満足できる番組内容ではなかった。それは「どの競技が視聴率高かったか」って事を元に振り返っているだけだから。そもそも、放映されてこその視聴率であって、放送されなかった場面はコンテストにエントリーすらしていない訳だ。だから、「シドニーオリンピックの感動の場面、視聴者投票」なんてのは看板に偽りがある。「放送された場面での記憶」によるものなのだから。
 こう言うと「感動の場面は全て放映したのだから、屁理屈を述べるな」って反論がNHKから出るだろう。「NHKが選んだ感動の場面でしか無い。違うと言うのなら論拠せよ」と僕は言いたい。
 その番組の中ではやはり定番ってことで柔道の田村亮子、マラソンの高橋尚子が取り上げられている。意外だったのは田村への投票が低い事。ま、予想はされていた。この8年間テレビに出すぎであった。テレビで何時も目にしていると「ついに金メダルか」と言うよりも「やっと金メダルか」になってしまう。テレビって媒体はミーハーなもので、あまり出ないと登場が待たれ、出すぎると飽きられ、悪くすれば妬まれる。既に田村は「ここまでテレビに出たのだから十分じゃないか」って雰囲気を醸してしまったのだ。
 専門のマネージャーでも居れば別だが、柔道連盟の老人達は田村を餌に補助金をかき集めた、そのツケが田村自身に被ってきたのだ。

僕が感動で涙した場面
 ズバリ、女子競泳団体メドレー・リレーの銅メダルである。テレビの前で「田中雅美選手、よかったな」と声を掛けずにいられなかった。女子平泳ぎ200mで今期世界第1位の記録保持者田中雅美選手の不振は目を被うばかり。100mの時は「200mへの肩慣らし」と思って見ていたのだが200mでも自己記録に遠く及ばなく、予選落ち。どの面下げて日本に帰るのかと言ったプレッシャが彼女にのしかかかっていただろう。
 女子競泳団体メドレー・リレーでの決勝。数時間前に50m自由形決勝を泳いだ源純夏選手にはあまりにも酷な最終泳者ではあったが、頑張ってタッチの差で銅メダルを手にした。プールから上がって4人の最初のインタービューで第1泳者の中村真衣選手が「私が責任を果たせなくて皆に申し訳ない」と泣くのを支えて田中雅美選手は「私が一番の問題児だったのですが、結果を出せてよかったと思います」と淡々と語る。その心の中には「メダル無しで日本に帰らなくても良くなった」って安堵があったはず。それを、表に出さずに淡々と語る田中雅美選手の映像を見ながら、おもわず「良かったな、田中雅美選手」と声が出てしまった。彼女は北海道の遠軽町の出身なので、メダルを持って北海道に帰れるな! って思いもあったのだが。
 オリンピックの華やかさを伝えるよりも、オリンピックを目標として努力する姿勢、そして、その晴れの舞台はゴールでは無く選手としての一里塚なのだと考えなくてはいけない。ストイックなアスリート達の実態。そんな姿をテレビは伝えて欲しかった。
 オリンピックのシナリオに乗せられた「公式広報機関」であるよりも、晴れの舞台を踏む人々を伝える報道機関に使命感を持ってもらいたい。
 このあたりNHKは倉庫の在庫テープの陰干しと揶揄される「プロジェクトX」が何故好評なのかを考えてみれば良いと思う。これについては別途書くつもりだがバブルがはじけてこの10年の閉塞感「いや、実は我々は結構すごい事やっていたんだぜ。元気出せよ」って呼びかけが「プロジェクトX」好評の理由なのだ。
 志し高く、信念を持って生きた人達をバブルの時代は「愚直な者」とせせら笑っていたのだ。でも、本当に世の中を動かしたのはこの「愚直な人々」だったのだ。それに、今気がついたのだ。千葉スズ問題で苦悩する水泳がシドニーで最初の銀メダル「めっちゃ悔しいぃぃ! 金がいいですぅぅぅ」で光明がさし、古橋会長なんかホットしただろう。
 で、目が曇っている。本当に水泳界を支えたのは水泳最終日での女子団体メドレーリレーなのだ。東京オリンピックを憶えているだろうか。アメリカのショランダー選手の5冠のわき役以前の日本水泳陣が最後に手にしたメダルは男子団体メドレーリレーの銅メダルだったじゃないか。あの時、古橋は屈辱と見ていたのか、そうとしか思えない。逆境に逆らい実力以上の力を発揮する。それがスポーツなのだ。タッチの差と言うと10cm程だ。この10cmに実は今までの練習の全てが凝縮されている。それが近代の水泳である。古橋が泳いだ頃と決定的に違う、タッチの差がメダル、特に「銅メダル」に届くかどうかなのだ。

田村の金メダル、高橋の金メダル
 オリンピックが終わって1ヶ月。もちろん、パラリンピックもオリンピックの一環であることは忘れていない。
 予想以上に田村人気は低く、高橋人気は高い。これは何故なのか。3度目の挑戦で手にした金メダルと最初の挑戦で手にした違いだろうか。それなら分かりやすい。でも、なんか違う気がする。
 田村はマスメディアに出過ぎた。誰もがある意味で「飽きていた」。高橋はマスメディアではマラソンで走っている時以外に出る事は無かった。この両者の国民が得ている情報量の格差が、情報量の少ない高橋に傾いていったのだろう。ここは「テレビの取り上げが」って意味でなく、国民全体の趣向として、そう流れていると思われる。「田村の事は解っている。それよりもあまり情報の無い高橋の情報を得たい」ってな事だろうか。
 そして「国民栄誉賞」問題である。スポット・ライトを浴びた「高橋たち」には水戸黄門の印篭のように「金メダル」のご威光があるうちは良い。現に小出監督の酔っぱらいテレビ出演も「金メダル」の印篭のおかげでおとがめ無しである。(酔っぱらいが「キューチャン、キューチャン」と言っている場面は普通ならノーなのだが、視聴者は許したみたいだ。僕は、エエカゲンニセイと思いチャンネルを変えた)
 自覚していると思うが(ま、60歳近いと小出監督もモウロクしているかもしれないが)今回の高橋尚子選手の快挙はハングリー精神で成り上がって来たって人気である。まさに、明日のジョーの丹下段平と矢吹ジョーが掴んだ栄光である。仕組み的に「明日のジョー」なのだから、「明日のジョー」たる分別が高橋尚子選手に無くてはいけない。
 しかし最近の言動はエンディングに向かう「明日のジョー」と何故か重複する。いわゆる「成り上がり者」の風体が鼻に付く。もっと真摯になれないものかとはたから見ていて心配である。「国民栄誉賞なんて来たらどうします?」なんてマスコミのリトマス試験紙に「そんなの考えたことも無いです」と答えておけば良いものを「いただけるならいただきます」の返答はいただけない。28歳にもなって、あんな返答しか出来ない高橋の人間性の浅さを感じさせる発言だ。
 いいじゃないか、「明日のジョー」なんだから。と一方で僕は思う。
ただ、今回、高橋は小出監督は借金を負った。オリンピック記録であのコースで勝利出来たのは会社が許してくれた最大のわがままを通した結果なのだ。今度は自力ではい上がってこい。1年以内に女子マラソン選手として初めての壁2時間20分を切った時に初めて明日のジョーでは無くてアスリート「高橋尚子」が完成する。

マスコミ慣れしてない高橋尚子
 日本のマスコミは寡黙で真摯な者に好意的である。それは「この人を世に紹介しているのは私だ」って偉そうな勘違いがまかり通るから。だから、出る杭は打たれる。これも同じ偉そうな勘違い「私は正義だ」を拠り所としてる悪習なのだが。
 マスコミに出過ぎた田村は、後は「打たれる」ニュースソースしか無いのだが、意外とボロは出さない。ま、普通はそれで良いのだが。高橋は今、田村と同じ道を歩んでいる。しかも田村のように企業スポンサーが付くと、イメージ防衛のための助言もありスタッフも居るのだが、高橋には酔っぱらいの小出監督しか無い。だから、スッピンでマスコミに出てくる。それはまさに「明日のジョー」なのだ。
 酒好きの小出監督、28歳とは思えない常識に欠ける高橋尚子。この組み合わせは「キワモノ」としてマスメディア受けする。でも、それはブームであり、ドックエイジである(この場合のドックエイジとは「One Dog has his age」の意味である)。

高橋は死なず、ただ、消え去るのみ
 残念なことではあるが、今の高橋尚子選手には上記のタイトルを捧げたい。人は高い志しを持ち、それに挑戦することにより高次元の人として生きていこうとする。ここ1、2年の「高橋たち」の志しは「オリンピック」に片寄りすぎた。その良い例が「金メダル取得」のマスコミの流れに抗して「オリンピック新記録」ってことをアピールしない姿勢に現れている。高橋の「戦術」はスポーツ的技能の優秀さに加えて事前の入念な情報戦。この双方があいまって金メダルを狙う、であった。それは、対オリンピック戦術でしか無かった。本当の「高橋尚子がマラソンをやる方針」は「2時間20分の壁を最初に破る女性」であったはず。オリンピック前の高橋尚子の言動でも「歴史に、存在したと刻印したい」と言っていたではないか。
 それはシドニーオリンピックで金メダルでは無いはずだ。が、そこまでなのかなぁ。シドニーオリンピックで名前を刻んだら終わりなの? それではオリンピックで選考されなかった選手は許さないぞ。

高校野球の「栄光は君に輝く」の普遍性
 好き嫌いの範疇で言えば僕は女子マラソンランナーで高橋尚子選手よりも阿部友恵選手が好きである。常に負け続ける30歳とは思えない小柄な阿部友恵選手を僕は応援している。これは毎年北海道マラソンに挑戦する姿勢と、生で見ている(僕はトレーニングを兼ねて自転車で北海道マラソンの「オッカケ」している)ためかもしれない。古館風に言えば「ひたひたと走る少年のように純粋な走る哲学者、阿部友恵選手」とでもなるだろうか。走っている時の彼女は風貌もあるのだけれどガンジーのようである。特に有森が出た時、高橋尚子が出た今年、優勝の目は99%無いにもかかわらず参加しひたむきに走る。これって、本当の意味でマラソンを市民スポーツとして広げる縁の下の力持ちである。
 「好事魔多し」。本当に高橋尚子選手が志しを達するのは2時間20分を切った時。で、それが出来るか? 僕はある意味で冷めてスポーツを見ている。それは「体力委せ」な部分が多いので観客としてしか接することが出来ない年齢の問題もあるが、「機会は既に越えている」って人類の英知が一方にある。現在にスポーツの持つ意義が誰にも見いだされいない気がする。42.195kmを「移動」するのは車で1時間程度である。自転車でも1時間半もあれば十分。でも何故人間は自らの肉体をとして走るのか。
 古代オリンピックならいざしらず、今のオリンピックは「競技」を人間の肉体で表すパフォーマンスに転化している。それで無くては「ビジネス」として成り立たない。がぁ! そもそものオリンピック精神、クーベルタンが唱えたオリンピック精神。時代背景が違い過ぎる。でも人類の普遍の祭典として今後ともオリンピックが伝承されるためには、逆にオリンピックが時代に合わせていかなければ生き残れない。サマランチは100年くらいたつと「時代背景を踏まえて、オリンピックを不動のスポーツの祭典にした功労者」になるだろう。時代に順応して開催されるのがオリンピックなのだから。
 でも、オリンピックだけがスポーツじゃない。本来スポーツは記録に鑑み「代表選手」を送り込むのでなくて、皆の健康維持の活動である。それがオリンピックの舞台で広報され普及して裾野が広がる。それがオリンピックを支えている理論武装だろう。
 阿部友恵ちゃん、札幌に来る機会があったら、夕食ご一緒できたらと思っていますょ(あ、余計な割り込み)見ていたらご連絡を(笑い)。

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2000.10.21 Mint