コンピュータ、ソフト無ければただの箱かな?

ただの箱にしたのは、無能な経営者
 温故知新って言葉があるように、パソコン全盛の現在を少し遡ると、コンピュータとの付き合い方が見えてくる。そうだなぁ、委託計算センターしか無かった僕が業界に足を踏み入れた1976年あたりがスタート地点かな。当時はコンピュータは計算センターに委託して利用するもので、指定の入力原票を控えとして書類を整理し、この控えを計算センターに渡すと計算して集計してくれる。
例えば、納品書の写しを原票にして計算センターの渡すと請求書作成から請求台帳、業務日報から各種分析資料まで出力して届けてくれる。仕事の流れを変えることなく、少し工夫すれば事務経費(事務要員の人件費)が軽減できる。会社は業務拡大に合わせて間接事務の女の子(セクハラじゃなくて、当時はそのような職種が女性の職場進出の面があったのだって話し)を増やすことなく外勤営業を増やせば良いのだから、トータルな販売管理費が下がる訳だ。
 経営の最大の課題が利益だとすれば。言い方を変えれば、赤字を恐れることだとしたら、この計算センターへの委託は経営の効率を大いに向上させた。これは「コンピュータ利用」のノウハウでもなんでも無い。にもかかわらず、世の経営者達は「コンピュータを利用したから経営が好転した」と勘違いしていた。実は計算センターの営業の口車に乗せられただけなのだが、結果オーライだったのだ。

コンピュータを使えばもっと儲かると思わせるメーカー
 ま、片棒担いでいたので、いまさらなんだと言われそうだが「お客さん。委託の次は自社導入でっせぇ」ってのが、1980年を目前にしたメーカーの論調。何故ならば、この頃に後に「オフコン(オフィス・コンピュータ)」と呼ばれる大型汎用機(今後とも銀行くらいしか残らないような大型のコンピュータ)よりも廉価な小型汎用コンピュータが開発され、さて、これを売らなければならない。当時コンピュータの営業ってのは、1年に1台も売れば良く、ほとんどの顧客はコンピュータをリース契約しているので、リース切れの5年後には入れ替えのための確率の高い営業が回ってくる。そんな訳で年1台新規に売れば一人前。2年に一度でもそれなり。5年に一度(つまり、ひとつの顧客にしか売れない)奴でも首を切る訳にはいかない(笑い)って世界だった。だから彼らに「最近どうぉ」って聞いて「最近暇してる」って言われると半年くらい仕事らしい仕事をしていないって意味。こんなのがコンピュータ・メーカの「営業」だった時代。
 そこに、中小企業でも導入可能なオフコンが開発され、別に市場にニーズが有ったのではなく技術がそういったコンピュータを生みだしたってだけなのだった。でも、メーカーは売らなければならない。そこで歌手の湯原が三菱のメルコムってオフコンでテレビ宣伝する。これに対抗して後に渥美きよしがIBM、この流れは森繁久弥まで続く。がぁ! 今、企業向けのコンピュータの広告あるだろうか。つまり、当時は、「作ったからには売らなければ」の時代だったのだ。で、今は、「売るためにはそれなりの顧客個別対応のノウハウが必要だ」になったからテレビ広告は無くなったのだ。
 で、先に書いたように「委託計算でこれだけ収益が向上するのなら、自社導入では爆発的収益を得られますよ」てのがメーカーが使った口説き言葉。
こんなのは100%違っている。当時、委託計算センターは高価な大型汎用機を購入して3交代でオペレーターを配し24時間365日動かして収益を上げていた。競争の社会だから各社価格はギリギリの低価格である。これ以上経費を下げられるなら計算センターとして成功するってことだろう。9時ー5時の社員を使って計算センター以下の経費に納めるのは夢物語なのだ。

でも、騙された経営者達の怨念「ただの箱」
 「馬鹿とハサミは使いよう」と言うが、まさに使い方を間違ったオフコンの導入が後を断たない。それは、基本的に勉強不足、業界の常識すら知らないお人好し。自ら責任有る仕事をした事の無いサラリーマンを育ててきた会社の風土。風邪のヴァイラスは体力が弱った時に活発化して発症すると言うが、まさに、このような根本的問題を抱える会社がメーカ営業に騙されて自社導入して失敗する。
 それを天災のように言うのが「ただの箱論議」。実は、使いこなせないわが身の恥なんだってことにすら気がつかない。
最近のパソコンと違い当時はオーダーメイドのソフトウェアが必要。このソフトウェアとハードウェアをセットにしてコンピュータ・メーカが納品していた。このソフトウェアがくせもので提案の時にソフトウェアの仕様が決まっている場合は少なく、営業の提案は「仲人口」。これに騙されて仮契約を行うと、いよいよソフトウェアの製造に向けて詳細な打ち合わせが始まる。このあたりから、ソフトウェア(システム)の設計を担当するSE(システム・インジニア)が登場する。当然ろくろく地ならししていない営業の後始末みたいな火事場に飛び込むことになる。ここで出来の良い会社と悪い会社の差が出てくる。現場の人間に少しでもシステムのセンスがあると効果的なソフトウェア設計を依頼できるのだが、センスが無いと仕事の自慢話しばかり弾んで一向に本筋の話しが進まない。
 そして、コンピュータ・メーカーもビジネスである。仮契約のままでは何時までも納品できないし工場のオフコンは出荷待ち在庫として押さえられている。ソフトウェアの作成に半年くらいだろうと読んでいた営業は何が何でも半年で納品したい。そこで「誰が何と言おうと半年で作れ」ってことになる。当然現場のSEは日々の自慢話を作文してソフトウェアを作る。で、出来たものは通常業務の機能が弱い割に、返品だとかクレーム対応とか、めったに無い事務にはイタレリツクセリってものになる。こんな非通常業務はコンピュータよりも人間が対応すれば良いのであって、作られたソフトウェアは使われることがない。
 SEてのはコンピュータの専門家だけど業務の専門家では無い。それを補完する会社側の窓口担当を間違えると悲惨なコンピュータシステムが一丁出来上がりになる。
 このような現場の後始末の現場も踏んだことが多いが、経営者に「第三者として調査するので調査費用を負担していただけますね」と言うと「金額による」ってのが一般的。「2ヶ月を費やして調査しようと思うので100万円が見積価格です」。「そんな金は無い、問題を起こしたメーカーに言ってくれ」なんて経営者には協力しない。「その結果でメーカーにコンピュータ引き取って返金してもらえるなら払います」なんて経営者にも協力しない。結局、背丈に合わない服を注文して「着心地が悪い」って言い分は作った側に非があるのでは無くて注文した側に非がある場合が多い。それに気がつかないのだから勉強代を払ってもらいたいのだが、それすら拒否するのであれば、自己の責任(これは「自己責任」と意味が違う)でやるしか無いだろう。
 で、今風に言うと経営者は「キレテ」、コンピュータなんてただの箱だぁ。まともなソフトウェアが無いのだから、と喚く。
「馬鹿と鋏は使いよう」だけど、「馬鹿に鋏は使えない」

自社導入は人材育成への投資って、捨て台詞
 「高い授業料でしたが、勉強になりました」って報告書を受けて感謝される事も「希に」ある。こちらは「身のほどを知れ」と暗に言っているのだが、「これに懲りて、今度はより良いシステムを作ることが出来るでしょう」って勘違いしている。いや、勘違いはしていないがその方法論が、またあの丁稚に委せるつもりなのかぁと目眩を感じさせる。
 経営者なんだから、自分の会社の力量を知らなければならない。赤字(借金)におびえる経営なんだからコンピュータは儲けるための道具と考えなければ駄目だ。で、それを動かすソフトウェア(システム)は現場の丁稚が考えたもので良いのだろうか。
 実はサラリーマンってのは昭和30年代の植木等の描いた「無責任男」と今もなんら変わらない。そもそも、山一証券だってサラリーマン経営者が招いた悲劇だ。前任の経営者たる経営者の経営失敗をサラリーマン経営者に押しつけたのだ。で、サラリーマンだから会社潰すしか選択肢が無かった。野村証券が時の総理大臣である田中角栄に働きかけて会社存続を画したのとは雲泥の差である。
 最近の丁稚は一生丁稚である。番頭になって暖簾分けなんてのを考えてない。定年まで丁稚である。この丁稚がデッチアゲタ(音が何故か合うなぁ)システムなんて経営になんら寄与しない。
投資では無い、どぶに捨てたのだ。それになかなか気がつかない。

女子社員にも出来ることしかコンピュータは出来ない
 繰り返すが女子社員が低能とか腰掛けとか言っているのでは無い。そもそも職場に事務職で高卒の女子社員が居て、営業職で大卒の男の子が居れば年齢的に差は歴然である。がしかし、同じ「新入社員」って枠で囲ってしまうのはどうかと思う。
40、50代の管理職にはこの若者の4歳違いが体得した事の違いが解らない。
で、一般事務以上のことはコンピュータは出来ない。ある意味で職場の花もできない。今では無いと思うが「お茶くみ」もコンピュータは出来ない。短いスカートから脚線美を見せることもコンピュータには出来ない。
 でも働き者である。但し、仕事のやり方を正しく教えればって注釈が付く。
その意味では「自ら学ぶ」って、いわゆる積極性なんかコンピュータに望めないのであって、一般の会社で言うと「人材育成が上手」な「教え上手」が居ればコンピュータは能力を発揮する。でも、失敗するのは仕事の引継すら説明できない人間を「コンピュータ担当」にした経営者の責任だのだ。
 中川官房長官? けっ! 就任の時に既に行状は解っていただろう。センミツ(千に3つの事実も無い)の週刊ポストに就任の時に書かれた疑惑が、憶測でなく証拠を提示されただけじゃないか。
 「任命責任」って捉え方があるが、ある意味で誰も口を挟めない最高権力には「任命責任」って責任追求は有って良いと思う。で、「知らないものに手を出すな」としか言い様の無い事態が、この頃のコンピュータ利用だった。
 結局、コンピュータは使える者にしか使えない。これは道具一般に言えることだ。なにもコンピュータにだけ限ったことでは無い。それが解らない経営者が「ただの箱」を自社の経費で買ったのだ。いまなら株主訴訟の対象になりかねないのだが、当時は堂々と「動かないコンピュータ」なんて日経PBの取材に応じていたのだから、時代が時代だたのかもしれない。

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2000.10.27 Mint