15年前は300bpsの音響カップラー
「通信」のタイトルを起こしておこう
この「通信」とは「情報」とも違うし「ネットワーク」とも違う場面で使う分類になると思う。硬い表現をすれば「家庭から接続するコンピュータ・ネットワーク事情」ってことになるかもしれない。今の表現ではITってことだろうか、いわゆるコンピュータ・ネットワークへの接続の話しである。(あ、「歴史」であるって言ったほうが良いかもしれない)
この「家庭からのコンピューター通信」の幕開けは電気通信事業法が改定され、日本電信電話公社が民営化されていわゆるNTTになる1985年であった。
それまでは音響カップラーと呼ばれるデジタル・アナログ変換して音声にし、これをスピーカーとマイクによって電話機の受話器に繋ぐ方法が唯一の方法であった。この時の通信速度は300BPS。二つの周波数の音波の違いでビットのオン・オフを区別する方法であった。もちろん調歩同期式で1バイトをスタートビットとエンドビットで挟んで10ビットにして送る。また、ハンドシェイクも原始的でスイッチによって自分がANS側かCALL側か設定する必要があった。
この時代に果敢に電話回線を利用してコンピューターデータを送ろうとしたのが今は無きJOISである。JIOSのデーターベース利用は利用料金の高さを除いても300BPSで、目的の情報がヒットするには1時間はかかるってものだった。
一方のコンピュータサービスのDRESSがある。これは当時の電電公社のプッシュホン機能を利用して電話機をキーボードのように使いコンピューターセンターのプログラムを呼出し、計算結果を音声で聞くものだった。実はこれは結構遊んだのだが、TK−80で簡単にできるものを金を払って利用する気はなくなった。
「モデム」は劇的に通信を簡便化したのだが
音響カップラーの使い方を説明しておこう。まず、電話機の受話器を取り上げる(専門用語ではオフフックすると言う)。コンピュータセンターのアクセスポイント(パソコン通信ではアクセスポイント、当時のインターネットではノード、最近のインターネットプロバイダの表現でもノード)の電話番号を「手動で」プッシュする。もちろん「ダイヤルを回す」でも良かったのだろうが、さすが、回転式でかけた経験は無い。
受話器に「ピーギャァァ」ってセンター側のキャリアーの音が聞こえたら音響カップラーに受話器をセットする(はめ込む)。この時に耳側と口側を間違わないようにしなくてはいけない。
ここまで来たらパソコン(音響カップラーとパソコンは予めパソコンのRS232Cジャックにケーブルを利用して接続されている)側で通信ソフトを立ち上げる。多くの通信ソフトは起動時には外部との接続はオフになっているので、引き数を利用して(つまり、この頃の通信ソフトはMS/DOSで動く)接続状態で起動する。そしてログインコマンドを送る。
実は初期のパソコン通信では掛けた側(CALL側)からログインコマンドを送る必要があった。NECのPCーVANでは「VANPCNEC02」、nifでは「C NIF」(だったかなぁ)。これでコンピュータセンターは初めて通信を始める。つまり、ログイン手順に入る。具体的のはidとパスワードの入力を促す画面がセンターから送られてくる。
これは当時の通信仕様ではしかたが無いのだが、この「ログインコマンドを送る」ってのが解らずパソコン通信が始められなかった人は多い。
ここまでの「手作業を経て」初めてパソコン通信センターの利用開始となる。
ところが、モデムを家庭の電話回線に接続しておくと、この手間がいっさい不要になる。もっとも、家庭の電話回線の接続をモジュラー・ジャックにして(昔は電話の宅内配線って電話機に直結だったんすよ。これを外せるのは「電気通信主任」って資格が必要だったのです)ここにモデムからのモジュラーを突っ込んで、パソコンからダイヤル機能のある通信ソフトを起動すれば自動的にパソコン通信のセンターに接続し、IDやパスワードと言ったハンドリングも行った後にメインメニューが表示されるってこと。
こんな便利な機能があれば、パソコン通信は「庶民」にも広がる。そんな淡い期待を感じさせたのが「モデム」だった。
結局「素晴らしきオタク達」の集まり「パソコン通信」
10年前の1988年当時、解放された通信事業の中で最も成功し、注目を集めたのが「パソコン通信」だろう。日本では日本電気のPC−VAN、富士通の関連会社のNifty−serve、(株)アスキーのアスキーネット、日立・東芝・IBMのperple、その他沢山の全国規模のパソコン通信サービス、そして個人のボランティアによる地域BBSが花開いた。
が、当時のパソコンは20万円を越える価格で、かなりリスキーだが会社のパソコンを流用したり一部ワープロの通信機能を利用したりが主流で、BBSに書き込みを行う「前衛テクノ」の人々は限られていた。にも係わらずパソコン通信が脚光を浴びたのは、ネットワークの持つ特性である「広く薄いものを集約する作用」が効いたのだろう。
僕もネットでしか知らない多くのハンドルネームを記憶している。筆頭が「東海地方の半病人スイスイ」であり「PC−VANの重鎮、呑竜」、「確信犯、アンギラス」、「竹を横にすら割れる性格、ふみ」、「参謀向きなのに党首になって自滅した、たこ姫」、そうそう、村おこし応援団の「ミレ」さんとも会ったことは無い。
これらの「一部のヒーロ」によってパソコン通信文化は成り立っていたいたのだが、それが全体の意向と勘違いしていたネットワークの多くが現在廃止されている。もちろん、商用ネットにとどまらず、地域にボランティアで派生した地域BBSも同じ鐵を踏んだ。
結局、時代の流れであるインターネットに押し流された感はあるが、パソコン通信はインターネットの一部として1995年から体質を改善しなければならなかったのだ。
日本のインターネットは権威主義、管理主義であった
今でこそ考えられないが、日本のインターネット利用は学術から火が付いた。「金を出しているのだから文部省の専権事項だ」って不幸な時代が20年も続いた。そこにパソコン通信の出る隙間が出来たのだ。1994年頃の日本のインターネット環境は面白い。多くの商用ネットの電子メールの相互乗り入れ。これすら「権威主義」、「管理主義」の延長で受け入れないって方針だったのだ。それでは真の「ネットワーク」にならんじゃないかって声を受けて、しぶしぶ「実験なら」って譲ったのだ。
同じく「商用利用」の問題がある。「お神が提供している回線上のネットで広告はまかりならん」ってことで、メールは良いがニューズレターへの広告の書き込みが絨毯爆撃を受けた。僕も「世間を知らない学者の卵にもならない精子の餓鬼が何をほざいているのか。世の中のニーズに応えてこそのネットワーク」って喧嘩売っていたのだが(笑い)。
結局、なし崩し的に日本のインターネットは既存の商用ネットと接続された。そのためにどれくらい誰から誰に金が流れたかは知らない。がしかし、既得権益って考え方がネットワークにも有ったなんて、今では考えられない。そんな時代が過去に有って今がある。
技術は300bpsから64Kbpsへ200倍も速度を早めた。がしかし、人間関係はやっと整理出来たってあたりが今ではないかな?