情報教育は情報リテラシー教育
ITを何と読む
森首相は「イットって何だ?」と読んだらしいが、他にもたくさん解釈がある。例えば「ITラーメン」てのが我が住む札幌市西区のラーメン店のメニューにある。。これって「いろいろ、たくさん入っている」の略らしい。また、「いいかげんな対応」と読むこともある。語源はInformation technorgy」だが、何処まで解って使われいてるか不明だ。流行語大賞も「オッハァー」なんかにしないで、「IT」を取り上げるべきだろう。
僕はInformationよりもInternetを採用したい。インターネット・テクノロジーがITである。そのインターネットは、百鬼夜行の世界で何が国民をハッピーにするのかターゲットを絞るのは困難である。言ってみれば、Captainの少しマシな程度しか今のインターネットには期待できない。「IT革命」なんて言っているが、それが「革命」になるものでは無く、せいぜい既得権の新たな争奪戦って「革命」が発生する程度だ。一般の市民には革命では無くて、「ゆるやかな時代の流れ」としか受けとめられない。
日本はIT(インターネット・テクノロジの意味です)には乗り遅れ、世界の3流国家になってしまった。これが何故なのかを考えると、「日本的ですなぁ」と笑うというか情けないと言うか、そんな実態が見えてくる。
情報化は当事者の意識の課題
前に書いた事を繰り返しているかもしれないと想いながら書いているが、「情報」とは交流する「行為」の形態を表す用語である。蓄積された資料を情報とは呼ばない。同じく、図書館はデーターベースとは呼ばない。本来であれば図書館なんかは「情報化」の先兵であるはずなのだが、実際にはそのようになっていない。何故なら、「情報」は「行為」であり「資料」では無い事を図書館って用語から感じている多くの人々が居るからだろう。
この話しはおもしろくて、経済の世界では「富と流通」って事になる。つまり、経済とは富の蓄積では無くて、富の流通であるって事実を多くの人は知らない。金の(貨幣の)流れが経済であり、金の(貨幣の)蓄積はその一部の機能である。誰もが金を蓄積し、なにもしないと経済は沈滞する。金が活発に流れることが「景気が良い」って事象なのだ。決して「貯金タップリ」では無い。「貨幣の蓄積である富、と貨幣の流通である経済」は別な経済理論で語らなければならない。経済は「金の流通」のことなのだから。
そして、情報も同じである。蓄積されるってことは貨幣の世界で言えば「非流通」。情報は蓄積されるのではなくて、流通されるもの。つまり、「いかに流すか」がITの課題だる。
ところが、堺屋太一さんの企画によるインパクは、結局「電通マルナゲ」の体制で、既得権の流れをそのまま受け継いでいる。正月が開ければ解るが、電通は「ホームページの化粧」でビジネスしている会社で、その内容は3年後れている。そこがインパク担っても「税金をドブに捨てる」としか思えない。この話しは2001年を通じて別途考えよう。
情報格差は防げない
昨今の情報格差ははなはだしい。大学では特に学生のインターネット利用による格差を目にする。当然一般社会でも同じなのだろうが、特定企業を誹謗したくないので大学に限って話しを進めよう。
高校と違うのは大学は格好付けて「レポート」なんてものを講義の課題にする。それはそれで一つのテーマを深く勉強する良い機会だから大賛成である。しかし、学生がインターネットで情報を得られる時代に、答の解っている課題をレポートさせる馬鹿な(おっと、21世紀には「馬鹿」は刺激的過ぎるので「アホ」を使う事にするのだった)教授、助教授が多い。
「調べるプロセスが勉強」って時代は終わりつつあるのだ。「人間は考える葦である」って学術の原点に立ち帰ってもう一度考えてもらいたい。世の中が「物知り」を尊いと思っていた時代を確実に破壊するのが「情報化社会の到来」なのだ。資料を沢山持っていることが尊いのではなくて、それに考察を加える「行為」が尊いのだと認識すべきである。図書館に行ったら解るような事は「答探しゲーム」であって、学術名に値しない。その認識が無い旧来の教育がはびこっている。情報化社会に向けて一番プロセス変革を求められてるのは教育機関である。にも係わらず「寺小屋教授」しか居ないのだから日本の教育機関は100年前となんら変わらない。これは、「権利優先の日教組」と「触らぬ神にたたりなしの文部省」の協同責任である。この両者で「税金をドブに捨てていた」のだ。
そして「取り返しできない時」を浪費していたのだ。まったく「アホ」としか思えない。
情報を流通させるのは「何故?」と思う心を育てることだ。そのためには資料の丸飲みみたいな暗記教育を一掃することだ。それがなかなか出来なかったのは試験で採点して得点を付けなければならない現在の教育制度の欠陥である。「何故?」と思う心は計る事が出来ない、がしかし、戦後日本は「計る事」による復興を至上命題にしてきた、で、教育すら(この「教育すら」って冠言葉をどれほどの人が理解出来るだろう。本来「教育は計れない」って言ったら暴言ですか?)個々人を計る仕組みに成り下がってしまった。
人間は知的な生物であって常に「何故?」と言い続けたから地球でエラソウニしている。それを19世紀の産業革命時代のように「画一な労働力の育成」って視点で明治維新以来教育をシステム化し、しかも120年も続けてるのは「アホ」じゃないの。誰か気が付いてよ。
情報化社会を生き延びる知恵(脱文部省)
僕は大学の非常勤講師の最初の授業で黒板に大きく「Curiosity」と書く。人間好奇心が無ければ終わりである。どれくらい終わりかと言えば「人間じゃない」ってくらい。
大学で情報教育に着ける教師を育成する講座とまぁ文部省の建て前に組み込まれたカリキュラムなのだが、僕は日教組と文部省が嫌い(笑い)なので、講義の主眼を「Curiosity]に置いてる。人間興味の無い事は好きになれない、だとしたら、興味を起こすのが教育では無いのか。そんなささやかな僕の日教組と文部省に対する反逆である(本当、涙が出るほど「ささやか」)
人間は他の動物の何が違うのか、はたまた人間はやはり動物なのか。これは大学時代に寮に居た頃飲むと出る話題(いやいや、当時の北見工業大学には哲学が廃れ、友人から言わせれば「お前が来るとそんな話しになる」ってことかな。僕の理想の大学は当時も今も何処にも無いことが解ったのだけれどね)だった。結局「人間は道具を使う」ってのが世間一般の解釈なのだが、僕は「人間は道具を作る」ってことに異常にコダワッタ。何故なら、「人間は道具を使う」では応えられない何かがあると思っていたから。
で、最近解ってきたのは「人間は考える葦である」って言葉。
宇宙の広大さから見たら一人の人間なんてちょっとした天変地異で死んでしまう、がしか、このちょっとした天変地異で死んでしまう人間が宇宙の仕組みを知ってる。
うーん、人間って好奇心を持った動物って言ったら良いのかなぁ。で、生物は進化すると「好奇心を持つ」。そんな気がしている。好奇心を持った動物、それが人間なのだろう。
だから、好奇心を失ったら「人間じゃない」で、そうならないように導くのが宗教では無くて教育なのだ。
教育と宗教は紙一重。だから、そもそも国が教育に口や金を出すのではなくて、個人が受けたい教育を選ぶシステムを構築すべきであり、そのために、ITが正面からでは無いけれど、突破口を構築できれば「税金をドブに捨てる」ことにはならないと思うのだが、「「文部省」ってトフラーの「第三の波」読むと、発展途上国にのみ必要な機能で日本にはぞろぞろ不要な組織と思うのだけれど。