日本史、世界史と分かれているのがおかしい

「教科書問題」以前である
 高校の教科書「日本史」が物議をかもしているらしい。韓国からの横槍に右往左往しているように「朝日新聞」は書いている。まったく、頭悪いと言うか、現場で反対している教師の味方になって購読数を上げたいのか、幼稚な記事の羅列に驚く。
 そもそも、高校教育の場で選択科目として「日本史」、「世界史」が択一的に存在する事がおかしいではないか。「歴史を学ぶ」のが「日本史か世界史を選択する」に、なんで化けてしまうのか。ちなみに中学校の歴史教育では「地理、歴史、公民」が「社会」の3点セットで、「選択科目」なんて余地は無い。
 教育に名を借りた、教職に携わる者のエゴが、現在高校教育の現場で、「選択科目」として「世界史、日本史」が存在している所以だ。国民が関心を持たないのを良い事にして、世界史の教師と日本史の教師を雇う構造を「教育に巣を喰う者達」が作り上げてしまったのだ。
「日本史」って科目そのものが、既に世界の歴史を日本を機軸にした視点で記述され、教えられ(受験対策として)る本質的構造を持っているのだ。そのような教育は「カタワ」である。そんな科目を戦後営々と続けてきた教育制度のカリキュラムが時代に合わなくなっているのだ。


教育には誰も責任を持たないのでは
 教科書の検定に「諸外国条項」なんての入れる絆創膏的対処の前に、「日本史っ科目は日本中心の歴史観になり易く、世界平和を願う我国の憲法の理念と両立しないので、そのような教育は行わない」と、何故、あの時言えなかったのか。
 それは、まさに、国を考えるのでは無く、自らの保身を考える官僚主導による国の舵取りの典型であったのだ。自民党が官僚の飼い犬だったからこそ「諸外国条項」なんて国際的に内政干渉を認める変な条項が出来たのだ。
 現在の高校のカリキュラムは、大学への進学を前提に組まれている。社会人教育なんて視点はさらさら無い。義務教育が「たくましく生きる力を育む」と目標を修正しているのに比べ、高校教育は大学予備校の色彩が強い。なお厄介なのは、大学に行かないと決めている者も、同じ「大学予備校」のカリキュラムを押しつけられることだ。
 その弊害は、学力低下となって現れてきている。いわゆる「落ちこぼれ」である。小学校、中学校での落ちこぼれには対処の方法がある。何故ならば、その原因が基礎学力にあり、そこを補完するかネグレクトすれば落ちこぼれは回復する。
代表的ななのは「九々」と「英語」である。この壁で落ちこぼれる子供が多い。
高校で「九々」
小学校教育で絶対に習得させなければならないのが九々である。何故なら、以後の算数の授業に必須の基礎的能力なのだから。しかし、教育の現場には馬鹿教師が多く、九々をマスターしない子供に補講等を行わない。小学校から中学卒業まで、マスター出来なかった生徒は算数、数学の時間は「お客様」である。これは精神的にもかなり苦痛である。で、さすが高校では学力別に学校が選抜試験で分類されるので、とある札幌の有名私立高校では1学期に九々をやっている。
英語も同じである。中学・高校を通して最悪な教師が英語の教師である。これは体験からでは無く、大学での英語講義を受けて、無駄な6年間だったと反省しきりである。
何故英語教師が最悪かと言えば、自分達が育ててこなかった責任があるのだが、何故か英語にエリート意識がある。そのため内に秘めた精神が「教師」では無く「教祖」になっているのだ。だから、自分の授業に付いて来れない生徒はバタバタ切る。教育者とは選別の機能では無く、底上げの機能なのだが、解っていない。
結局、アルファベットも読めない生徒が3年間教室で「お客様」になる。
社会で「英語を学ぶ理由」を問えば「多様な国際社会を理解するため」となるだろう。しかし、中学校・高校の英語の教師にそのような感覚は無い。文法に無い表現は受け付けないのだから。

高校がこんなで、歴史観なんか育つか
 中学校の教育は変化していると感じられる。数カ月前だが、親父の家に西野福井野中学校の生徒から電話が入り「昔のことを勉強する授業で、実際に聞いてみるって実習があるのですが、伺って良いでしょうか」と電話が入る。いちおう、いいですよとは返事したものの、学校の授業なのに先生から事前の連絡が無いのは変だ、とのことで学校に電話したらしい。
「お手数かけますが、生徒の社会活動の授業の一環なのでご協力お願いします」との返事だったのだが、中学生が老人世帯を襲って金品盗む時にも使えるじゃないか、学校としてフォローが手抜き過ぎると指摘したらしい。この事自体、学校側が新しいカリキュラムをこなす能力(一般社会常識)に欠如している証左だと思うのだが。
 で、実際に中学生数名が訪問して、「昔の事と言ったら何時ごろの事と思いますか」とか質問していったらしい。親父の条件は「学校に提出した作文のコピーを私にもよこす事」だったのだが、後日届いたコピーの中で「昔は今より平和だったと思う」ってのが有って、「今の中学生には軍隊に行くってことが受験より平和なのかなぁ。俺の言い方が悪かったのかなぁ」なんて一人反省している(笑い)。
 たしかに中学校教育は僕に言わせると「日教組支配を脱却し国民本位になって来た」と思う。が、自治権が強い高校では、まだまだ社会が求める教育では無く、教育のための教育が行われ、そこで多くの青少年が精神的ダメージを受けている。余市町の北星学園などが懸命にその現象と戦っている。
 高校の歴史教育とは、これほど脆弱で、その教科書が問題化する以前に「日本史」ってカリキュラムが必要なのか、是非とも議論してもらいたい。基本的に、日本、世界と分けた「歴史観」なんかは存在しない訳で、その意味で「民主的、合理的、経済的」に、いま選択科目として高校教育に「日本史と世界史」が存在(しかも二者択一)する理由を説明してもらいがい。

僕の講義方針
 実は、今まで書いてきた「教育に携わる」の中に僕も入るのですよ。「情報処理演習」の講義を大学で持っているのだから。
で、あえて、非常勤講師として常勤の教育者に言いたいのは「生徒の好奇心をくすぐっていますか」ってことだ。先生は偉くて生徒は従うなんて構造が教育の現場でまかりとおっている。(これは大学だけのことでは無い)。僕は、先に生まれた先生は時代に取り残される宿命を持っている、だから、生徒に迎合せよとは言わないが、今の時代を理解する感性が無ければならない。と言ってるのだが、教師ってのは職業にすると「守りと囲い」の世界で、新宿駅でダンボール住居と精神的に同じじゃないかと思われ人々が多い。「多い」ってのは仕事で付き合う世界と分けて考えた場合ってこと。
 どんな職場でも「ダンボール住居」はスポイルされる。がぁ、教育の現場では生きているみたい。
で、最後に僕が講義の初日に黒板に書くパソコン上達方法
curiousty


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2001.05.12 Mint