「命をかける行動」を批判する権利は無い

最も命をかける職業は「消防士」かな
 右左の議論の中で「自己犠牲」が語られてるが、実は、もっと上位の議論でなければならない。「自らの命を賭して人を救う」ってことは美談として結構頻繁に起こっている。近くは地下鉄での転落を救って犠牲になった韓国の青年だろうか。
 職業として表現は違うが「自らの命を賭して人を救う」って人達が居る。日本では「消防士」を例に上げると分かりやすいだろうか。典型的である。でも、仕組み制度が違うが「精神」の共通項では昔の特攻隊隊員も同じだったではと思う。背景にある思想心情制度の違いと、個々人の「精神」は分けて考えなくてはいけない。個々人の精神は今に生きる消防隊員の精神となんら変わりはないのだ。
 前にも書いたが、「自己犠牲」って言葉はなかなか受け入れられない。特に右翼的に受けとめられ、なかなか社会の認知を受け難い。でも、実は若者も含めて我々の中に「他人のために役立ちたい」って精神は芽生えているのだ。これが、アジア的もしくは日本的な感情なのか、人類普遍の感情なのかは今後調べるとして、やはり人間って外からみたら「自己犠牲」、内から見たら「生きる証」みたいなものを背負っているような気がする。
 その意味で、「火災を防ぐ」のが使命の消防署が、実は「火災が起こった時」と両面併せて事前に対処してるのは国の機関として珍しいと思う。本来、「火事を消す」機能から始まって「火事を防ぐ」の事前のフォローにたどり着いたのは、消防が持つ機能の発展なのだろう。
 本来組織の論理としては「火事の鎮火出動」が原則なのだが、一歩踏み込んで「防火」までテリトリーいしている。拡大解釈と言ったらいいのか、実は組織が前向きに動くとこのようになるってサンプルではないだろうか。本来の目的に鑑みれば、火災の鎮火こそが使命で、火災を未然に防ぐってのはテリトリー外である。にも係わらず消防署は防火運動に積極的である。
役所ってのは「自分の職域を守る」なおだが、消防署は「職域を無くしたい」って精神が有ると思われる。


戦争ですら同じ状況である
 おっと、拡大解釈と非難を受けそうだが、基本的に「戦場で戦う」って行為も同じだと思う。「強制された思想」って言われるがそもそも人間には「生を受けた時代」って本人にはどしょうもない宿命が有ると思う。不幸な時代に生まれた人は不幸なのかもしれない。でも「生を受けた時代」って歴史観でくくれないだろうか。「今の時代感覚で歴史を裁いてはいけない」のは当然だが、やはり人の生きざまはその人が生きた時代を受けて考えるべきものだろう。
 小泉首相の「靖国公式参拝」ばかりが、朝日新聞が好きな話題なようだが、本来日本が持つ民族意識を「悪いもの」、「太平洋戦争を繰り返すもの」なんて発想は多国籍のアメリカから植え付けられた思想である。決して「進歩的」では無く「欧米かぶれ」なのだ。日本が2000年の歴史の中でほとんど単民族、単一国家で過ごせたのは世界に例を見ない特殊な国家感を有している。比類するなら「エチオピア」くらいか。
 その歴史観の中で60年前に自らの命をとして2000年の国の制度を守ろうとした時代背景を考えてみなくては不敬ですらある。

何故、左翼は「侵略戦争」にしたいのか
 歴史観は個々人が持つものだが、太平洋戦争は決して侵略戦争と呼ばれるものでは無い。単純である。日本が戦った相手は中国でもなければ、朝鮮でも無い。それは一部に中国軍(のようなもの)も有ったが、大多数は列強が戦争の相手である。それは正直に言って「植民地支配主義」の西欧列強と戦わなければ自分も「植民地支配主義」の勇になれないって事も有った。しかし、歴史の偶然が、日本戦争に負けることにより、東アジアに日本の「植民地支配主義」の完成を阻止され、だが、結果的にアジアの「植民地支配」が誰によるものでも無く、個々の民族に委ねられたのだ。
 その歴史観は事実の検証である。「日本が東アジアの植民地支配化」に失敗したのだ。だが、歴史とは皮肉なもので、それが、「結果として」東アジアの自律」を促進したのだ。

今の価値観で過去の人をヒョーロンするな
 ただ、当時の日本は確かにそのような「歴史観」は無かった。当然だが、当事者に歴史観は無いのだ。
 日本共産党ってのは楽しい団体で「靖国は海外侵略を正当化するための国家機能である」と言ってる。じゃぁ、聞きたいが、あなたたちのシンパの多い「国立病院」、これって、旧軍隊の陸軍病院の跡ではないのか。これも「戦争を履行するための組織」だろうがぁ。
 それは否定せずに、宗教に口を挟むのは政治の宗教介入である。その危惧を侵してまで共産党は何故そんな発言をするのか。論理がメチャメチャである。過去の歴史を現在の価値観でヒョーロンし、自らを利するようにねじ曲げてるのだ。そんな論理にNoと言わなければならない。その一点に絞れば小泉首相の公式参拝(そんな区分をしたのはマスコミの馬鹿だが)は、そもそもマスコミがめくじら立てて取り扱う問題では無い。あえて取り扱うにはなんらかの恣意的政治介入があるとかんぐられもしょうがない。
 結局「聖域無き構造改革」ってのは、「共産党はこれさえ言っていれば共産党」って部分すら対象になるのだ。自民党が革新系にならんとする今の「生みの苦しみ」。これをだた眺めている野党では目的完了のおりには「保守的野党」になるのだ。そこを見据えた野党の方針が望まれる。「自民党、民主派閥」では駄目なのだよ>鳩山君。


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2001.05.23 Mint