教育改革の原点は「教科書問題」

教科書で教育が決まるだろうか
 「新聞を教育の場で利用しよう」って運動がある。朝日新聞なんかが熱心なのだが、これに誰も反対しない。しかるに、いわゆる「作る会」の中学校歴史の教科書の選定には当事者(選定当事者)以外の人間からも横槍が入る。もちろん、公的に選択と私的(教育現場の個々の教師の裁量)に選択の違いはあるが、実際に教わる生徒にとっては、教科書であれ教材であれ違いは無い。
 受験に向けての試験の成績を重視する現在の教育制度の歪を認めるならば、どのような教材であるか、よりも教材に何が書かれており、その教材に準じて試験が行われるって実態を良く理解すべきだ。そして「この教材で勉強しては高校受験は受かりません」と言えば世論を味方に出来る(と、同時に、中学校は高校受験のプロセスでしか無いと認めることになるのだが)。
 たかだか「教材」である。教材で授業が左右されるような教育しかしていないのか、と僕は全国の教師に問いたい。


所詮教える側の資質が優先する
 3年ほど前から大学で「情報処理」との冠でパソコン利用の基礎みたいな講義を非常勤で持っている。フィールドが女子大ってこともあって楽しいかと言えばそれなりなのだが「厳しさ」って面で踏み込めないフラストレーションがある。
 パソコン利用は学問と少し違っていて、永遠のものでは無い。3年も経つとofficeー2000なんか無いのだ。だから、個々のアプリケーションの操作を学ぶよりも、パソコンと付き合うには何を知れば良いのかに重点を置いている。「世の中に出て恥をかくよりは、今、恥をかいても学んでおけ」ってことで課題提出方式で行っているのだが、学生には解っていない者が多い。課題さえ出せば単位がもらえると100%文化系根性の者が多いのだ。
 3年目になるが、講義の最初に必ず伝える事がある。それはパソコンを含めコンピュータを学ぶのに必要な資質は「Curiousity」であるって事。数%の学生が将来教職に就く可能性があるが、そこで大切なのは教わる側に教える側が「好奇心を持たせる事が出来るか」。その一点でしか無いって事実。
 「受験のため」のインセンティブしか与えられない今の教育がもたらしたものは、多くの「落ちこぼれ」である。そして「落ちこぼれ」はスポイルしなければ成り立たない学校運営である。そもそも何故「落ちこぼれ」るのか。現在の学校教育には大きな二つの壁があると思う。この壁を乗り越えられない人間は淘汰されてしまう制度を当然としている。
一つは小学校での「九々」である。単純なことだが小学校低学年で「九々」をマスターしなければ、以後の算数では「お客さん」である。しかも100%の児童がマスターできるだけの時間を割いていない。ここで小学校後半の4年間を「お客さん」で過ごす、いわゆる「落ちこぼれ」が発生する。
 それに追加されるのが中学校での「英語」である。何の必要があるのか解らないまま英語教育(しかも、コミュニケーション英語では無くて、学者の学問みたいな英語を12歳の子供に強いている)がカリキュラムに取り入れられている。ここで、再度、もしくは初めて「落ちこぼれる」者が多い。
この壁を乗り越えられなかった(乗り越えられなくて当然と思うが)者でも、どこかの高校に入学する。で、1学期に窓を閉め切って「九々」の唱和となる。高校の授業に「九々」が出てくる。それは「義務教育制度」でスポイルされた者を受け入れた当然のカリキュラムなのだが、なんか、どこか、変ではないだろうか。

教育が組み込まれたシステム化している
 教科書が決まれば授業内容が決まり、育つ人間が決まる。そんな画一的な思想が教育を駄目にした。同じ費用を掛けるなら、良い教師の元で育まれる教育と駄目な教師の元で育まれない教育を分析し、国民の税金で賄われる義務教育を効率的に行う為の指針を明らかにすべきである。旧文部省と日教組の間で話し合われたのは、教員は公務員であるにもかかわらず文部省の言う事を聞くか聞かないかの条件闘争ばっかりであった。
 子供を学校に通わせる父母との会話を日教組は度外視していた。そこに、問題の根源がある。予算執行の監督官庁にばかり目が行って、利用者である国民、生徒、父母に目が行かないのだ。それでは人間相手の「教育」の実践が出来るはずがない。
 民間企業でも「顧客主義」を失った組織は滅びていく。ま、NTTなんかが筆頭だが 社員が顧客主義では無くて組織帰属主義になっている組織が日本経済を崩壊させているのだ。列挙にいとまが無いが、ダイエーだって、イトーヨーカドーだって、原点である顧客主義を失って苦労していのだ。ヤオハン倒壊の事実は、企業は「顧客主義」でなければ生き残れないことを示している。
 しかるに、国の機関がどれもこれも駄目なのは、上位機関の末端主義で、本来の「顧客主義」を失っているからだ。民官を問わず、組織の存在理由はは「顧客主義」にあるのだ。
 現在の教育は、この「顧客主義」を失い、上位ばかり見ている誤っている機能不全にある。

国民に教育を選ぶ権利を保証せよ
 今の「義務教育」制度が壁にぶちあたっていると思う。明治以来の国民皆教育制度は小泉首相に言わせれば「ホームレスでも乞食でも新聞を読んでいる」社会を作った。これって、世界的にみて「希(まれ)」の範疇に入る。その「希」を実現したポリシー(精神)とはなんだったのかと言えば明治時代以来の「富国強兵」である。
 小学校に入学した当時の事を思い出せる人は少ないと思うが、自分の子供が小学校でどのような教育を受けているか、少しは関心を持ってもらいたい。今小学校では1年生に「集団活動の会得」と名前は高尚であるが、実態は「軍事訓練」を行っているのを知っているだろうか。
教員が管理しやすい児童に訓練しているのだ。これは教員側にもメリットが有るので誰も問題視しない。でも、「生きる力をはぐくむ」方針とは合い居れない「軍事訓練」なのだ。
 教職員は「義務教育制度」による「利権集団」であるってのが僕の認識だ。その「利権」を国民から批判されないように、もしくは批判されながらも、正当性を情報発信する義務が公僕である教師集団に有ると思う。なんせ、税金で賄う「義務教育制度」なのだから。
しかして、その実態は「遅れず、休まず、働かず」の公務員憲法遵守(笑い)そのものである。そもそも「教育と効率」なんて頭にも無い。たまたま出くわす「効率」は自分に取っての効率でしか無い。こんな集団が戦後60年にもなると言うのに「聖域」で手つかずで「放置」されているのだ。
 「6・3・3制を改革する」なんて小手先の「改革らしさ」よりも、根本的にどうするのかってビジョンが欲しい。民主党も職業利権団体の支持を得たいがために発言できない部分なのだが、基本方針を明確にすべきである。
それは「国民本位」である。
この錦の御旗をかかげる限り民主党はレーゾンデートル(存在事由)が有る。がしかし今の民主党は「労組本位」な部分からの脱却が出来ていない。いわゆる「タレント議員候補」が惨敗したのも民主党に「国民本位」の姿勢が明確でないからだ。大橋虚泉が100万票取れないってのは大誤算であったろう。で、その原因分析すらなされていない。
 「国民本位」の姿勢に立脚して今の教育のシステムはあまりにも欠陥だらけである。それは「明治以来の「富国強兵」以外のポリシー(哲学)が掲示されていないからなのだ。仕組みを変えるのが「改革」では無い。精神を変えなくては。
 「国民本位の教育制度」これからはかなり離れていると感じないだろうか。「やれと言われたからやっている」くらいに現場は理念が無くなっているのだ。


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2001.08.07 Mint