知識偏重教育の崩壊
小学生に英語、大学生に敬語
ほんま「教育がなっとらん」でぇ。まともに敬語を使える大学生なんかおらへん。平気で友達言葉で話しかけてくる。敬語を知っていて、ほな少し親しみを込めてみようかなってレトリックちゃう。あの話し方しかできへんのや。ほんま、親の顔が見たいわ。
小学生から英語を始めるんなら大学生のカリキュラムに敬語も入れんと、まっとな社会人は育てへん。「なんちゅう言葉遣いやぁ」なんて言われたら萎縮して話さんようになる。人と話さんようになれば何を考えてるか回りのひとには解らん。解らんから付き合いがのうなる。そやかて、気持ち悪いやんか。何も話さないのにグループに居る奴って。だから、ヒッキーにでもなってしまう。
学校の教育って変やで。人生を生きる為になんも役だたん事は沢山教えるけど、大切なことはこれっぽっちもおせぇない。それで「生きる力を育む」ってんだから、アホォと言いたくなるやんけ。だいたい、人間は社会的動物であるなんてゆうても、その社会的に育つための教育って今の学校教育にはあらしまへん。なら家庭でするって前提やったら、そのように言わんあかん。戦争が終わってからの新制教育はそれを受けた世代が子どもを通わせる2世代目に突入しとんのや。そして1世代目は「古き良き時代」の教育を受けているから教師は父母と同じと思って学校に子ども預けてんのや。でも今の学校って「教育マシィィィィン」みたいに完成しとるから「私これはやりません」みたいに隙間を埋める能力(父母機能)なんて全然無いのや。だから、社会から見たら「欠陥人間製造所」みたいのか今の教育機関なんや。そこに税金をジャブジャブ突っ込んでまったくもう。怒るでしかし。
追いつき追い越せは昭和50年代に終わった
関西弁モードから電話で語るモードに変更。
日本の近代化に必要だったのは、進んだ西洋の知識を吸収することだったんだ。だから、蘭学なんてのが有って、とにかく外国はそして世界はどれくらいの科学技術の水準に有り、日本はそれをどうやって追いつくかってのが教育の根源にあったわけ。
もう一つ大切なのは日本には儒教の思想が根源にあって、目上の人は物知りで尊敬しなければならないって事から物知りを大切にしていた。だから、帝国大学なんてものが出来て「物」を教える学問の最高学府が作られたんだ。ただ、それは「一部の知識人の知識を万民に広める教育」って面をもっていて教師は教えていただく対象ってことだったんだ。
寺小屋あたりから「教えることが職業になる(商売になる)」ってことが始まったのは逆に教わる側が「教わると商売になる(高い収入を得られる)」って事とのニワトリと卵の関係だと思うんだ。その時代の中で「高度な知識を伝授する」のが最高の教育であり帝国大学はまさにこの方針で運営されたんだよ。
一つだけ毛色の変わった教育が当時も有ったんだ。「陸軍中野学校」なんて言われてる陸軍大学校。ここって、知識の伝授の学校では無くて実践の学校だったんだ。実践てのはそれぞれの場面で自分で考えて方向を見いだす事に方針を定めた教育だったんだ。つまり、正解の無い教育、考える事を教える教育だったんだ。でも、これって戦争が終わるとともに「軍国主義」の風呂敷につつまれて捨てられてしまったんだ。
社会に対して実践的教育って実はこの陸軍大学校に模範があるんじゃないかなぁ。
生きる力は「考える力」と「表明する力」
モードを普通に戻すね(あ、まだ引きずっている)。
大学のカリキュラムはてんでなってない。教養と専門なんてのは100年も前の考え方だ。生きる力が「教養」で狭い専門馬鹿が「専門」ではないのか。ところが今の大学教育は「教養」はゼイ肉、専門は化石的理論で埋め尽くされてる。教養課程でブクブクとゼイ肉を付けて、専門課程で馬鹿になる。それが現在の大学教育なのだ、これは僕が大学生だった30年前となにも変わっていない。おいおい、30年も同じで時代に生き残れるのは自民党くらいだぞ。
とにかく今の教育はどうしようも無いくらい税金に群がるダニみたいなものだ。国民も悪い、現在の教育を中央の文部科学省に委せて何も言わない。欠陥制度による欠陥教師による欠陥人間育成が行われているのだ、今の教育の現場では。その大きな理由は「教育は知識伝達である」ってテーゼ。これは明治から大正の「追いつく教育」の残骸なのだ。もはや21世紀、日本は教育のテーゼを「思考力強化」にシフトしなければならないのだ。
大学の現場で教授が教えられるのは「歴史教育」でしか無い。時代の歴史による必然性の検証でしか無い。丸暗記で試験を通れば何も意味の無い「お題目」なのだ。それを「教育」と呼んではばからない教授ってなんなのだろう。
「時代は今までこうだった、これからどうなるんだろう」なんて事を学生とともに考えるのが最高学府の教育だろうがぁ。
考える力を育成するのは大学の使命なのだが、考えないでコピーしろみたいな教育で大学は運営されてる。熟睡、爆睡の学生を気にもせず講義をして定期試験で絞める。そんなの教育なのかぁ。お前の教育は熟睡、爆睡の学生に対するリベンジ定期試験なのか? こんなプロを自認する教育者に囲まれて私シャァどうすれば良いのだ。
学問なんでどうでも良い。「生きる力」って教育で行うよりキャンプでもしようか。考え工夫することが「生きる力」なんだよ。教室で爆睡してる事自体、生きる力を伝えられないってことに気が付かなければ>教員側
メル友は女子大生80人
うーん、僕は恵まれている(笑い)。僕の講義は毎週、全て電子メールでの課題の提出にしている。その際に「何かひとこと」を添えて欲しいと言ってある。添えて来る学生も居るし「事務連絡」みたいな最低限しか書かない学生も居る。でも、「言えば、書けば叶うのだ」って事を体験して欲しい。言わなければ何も伝わらないってのが社会なのだ。主張してこそ得られるものが有るってことを、せめて学生の時代に体験してもらいたい。
そのために、課題提出の時に書かれたコメントには授業で応えているつもりだ。おとなしくものを言わない性格では生きる力が付かないのだから。
最近純粋な(笑い)女子大生って減ったよなぁ。女子大学生が多くなった。歌舞伎町でも女子大生スナックってまだ有るのかなぁ。20年くらい前に道東の中標津のスナックのマスターと話したときに「わし、中標津最初の女子大生スナックやりたいんですわぁ。そのためには中標津に女子大を誘致しなくては」って言っていたのだが、まさに「女子大生スナック」は歴史と共に消えていくのだろう。「女性」であるってことが特別でない時代が来るってことは喜ばしい。男性と女性の区別は無いって教育を受けて、でも社会は差別(差異)を含んでいた時代から一歩前進したのだから。
つーか、最近、女性である価値ってすんごく減ってません?
教育はもちろん男女差なんか無くて、しかも「より考える女性に」有利なんですよ。男は旧来の知識教育のシステムにはまってしまったけれど、女性は本能的に「良く考える」ようです。それは何故かと言うと今の時代、男はサラリーマンとして家族の経済を支えるだけなんですよ。家族にとっては「富のインプット」って役割でしか無いのです。
ところが女性は結婚しても進化(生物的な意味ではありません)するのです。
「妻」であり(ま、これは適当なレベルだけれど)、「母」である(ここが男は体験出来ないなぁ)ってことはウラヤマシイ。
それが「考える母」だった時に初めて「生きる力」を持った子供が育つ。つまり、教育の方向転換は世代が変わるくらい(おおむね30年)効果は評価は出来ないのだ。
女子大で非常勤教師をやっていて思うのは、絶対この集団の中に第二の中島みゆき、大黒摩季が居るって実感。
居るよなぁ...
たぶん。