教育とは、いかに「学ぶ気が無い人間を集めるか」

義務教育化が高等教育から最高学府まで
 誰でもが進学する状態を指して「日本の教育水準の高さ」を誇る時代は昭和60年代(1985年代)頃に終わったのではないだろうか。少子化とともに供給側(大学)の間口は広がり短大なんかは常に定員割れ、それでも経営続けているのは惰性としか言いようが無い。
 なかなか合格しない大学から誰でも入れる大学に変わりつつあるのに国の制度は戦後の1945年からの新制教育制度から一歩も進歩していない。小泉首相も改革を叫ぶなら変化しないが故に時代に合わなくなった保守的制度の洗い出しとその変革シナリオの策定を広く命じれば良いのだ。自分の「悲願」の郵政民営化(現実には公社化でしか動いていないのだが)ばかり叫んでいるのでは政治能力が問われる。
 空白の10年を生んだのは戦後の教育制度の歪みであって、そのことを教育関係者は真摯に受けとめなくてはならない。サラリーマンを送り出す就職課の行動、学問の府と言いながらペーパーテスト偏重の単位認定制度、それで「よし」としてきた守旧体制に税金をつぎ込んできた現在の文部科学省の「他人の金意識」。全ては、教育に端を発するのだ。
一国の崩壊を長期的戦略で考えれば教育制度を利用して崩壊に追い込むのは常套手段である。誰に言われることもなく日本は時代に合わない教育制度で国民を育てたボディーブローで国家を衰退させる道を歩んでいるとしか思えない。

帽子を拾う副領事を作ったのが現在の教育制度
 帽子を拾って渡す時点で大使館の「不可侵」は自ら否定したも同然だ。だが、「外務省なっとらん」なんて言う前になんであんな人間が外務省に雇用され中国の瀋陽に赴任して税金から給料をもらっているのかと考えると、現在の教育制度の下では「あんな馬鹿しか採用出来ない」って外務省の事情もあるのではないか。国のために身を張るって人間は外務省の必要な人材では無いのだ、国会と密接な外交には政治家先生と巧くやれる人材が欲しいのだ、だから、佐藤優なんてのが出てくる。結局外務省ってのは不要なのだ。日米貿易摩擦では通産省が切った張ったの大立ち回りをやったが外務省は何もしてないでは無いか。
 「当事者能力が無い責任者」を作ったのが現在の教育の最大の無責任だと思う。「兵隊は作るけど、将軍は作れない」と始めから諦観してるサラリーマン教育者に我々は多額の税金を払ってる事実を忘れてはならない。日本が世界で占める地位は、工業生産の上手な国を経て、世界を供に支える僚友にまでなっているのだ。
明治の時代に「富国強兵」を旗印に当時の欧米先進国からの「侵略」を排除し、曲がりなりにも独立国として存在し、ま、列強と肩を並べて植民地主義に傾き、アメリカからの理不尽な禁油、禁クズ鉄を突きつけられて「窮鼠、猫を噛む」の行動に出て、予想とおり敗北したのだ。ある側面から見れば、既に「外交力」を失ってた故に「座して死を待つよりは撃って出る」って選択肢しか無くなったのがこの時代だろう。
 国防と外交は国の存続に係わる重要な機能だ。このことを国民は忘れてしまった。
何故か、それは工業生産で生き残ると決めた時代の教育制度のまま惰性で30年も走っていた結果なのだ。
 例えば東京でオリンピックが開かれた時、日本の国際舞台での役割が変わって来たことを象徴しているエポックメイキングな事だったのだが、その後、国の行く末を方向転換した痕跡は無い。1964年のことである。
 そして今、日本で「サールド・カップ・サッカー」が始まる。これは日本が国際的にどのような機能を担うのかって観点で考え、そのための人材育成を考えなくてはならないのだ。「予選敗退で選手強化」なんて短絡的な発想では無くて。

人を育てる機能を失った教育機関
 日本人の勤勉さってのは古くは儒教の影響で年輩者を敬うのは経験が価値有る判断を生み出す。その経験は勉学で補完しうるって論法なのだ。だからゲスな言い方をすれば「教育を受けていれば金が稼げる」って方向に走り、1970年代の「教育ママ」や「お受験」に結びつくのだ。が、そのシャワーを浴びた世代が納得してないのだから、その世代が親になった時に自己否定して子どもに対し「教育ママ」や「お受験」を強要しない。強要しないのは否定するからで新たなビジョンがある訳では無い。故に「放任」となる。だからジュリアナにパンツ丸だし女が出現する。援助交際なんてのがビジネスプラン化する。
 日本全体が教育機関を軽んじる風潮を良い事に、ますます教育機関は自分勝手に振る舞ってきた。「先生なんだから研究しなければ。教えるって機能に一生懸命なれと言われても」みたいな助教授、講師が増えてきた。彼らは学部のヒエラルヒーしか見えてない上しか見ない「ヒラメ」である。学生は昔のようにゲバ棒持って暴れたりしないし、とにかく学部には何も期待してないないのだ。受験戦争を戦い抜いた安住の地を荒らす行為をしたくないのだ。
 無気力な学生ほど教える側に楽な対象は無い。半年の講義では全員「爆睡」させといて、定期試験で適当に単位を与えておけば誰に迷惑かけるでも無い、授業は休講ばかり試験は甘いってのは学生の「理想的な教育者」になってしまう。学生は学費払って単位を得られるのだから資本主義経済にも乗っ取っている。消費者重視なのだから文句も出ない。それが最高学府としての大学の姿なのかぁぁと叫ぶのは内部に居ない。外部から叫ぶ奴は無視して良いのだ。後ろに誰も居ない「たわごと」なのだから。

小学校が改革されなければ
 全部「義務教育」である。その義務教育が学生自身理解していない。聞くと半分以上が「学校に行く義務があるんでしょうぉ」って二十歳にもなってそんな知識しか無いのかと逆ギレしそうになる。義務教育ってのは子供を経済的な理由で学業を受けさせずに就労させる親の行為を縛るものなのだ。子供が学業放棄するのは「義務教育」では縛れない。
 日本には教育者に対して「先生様」みたいな信仰がある。子供が通っている学校に対して「預けたら託す」みたいなことが美談だと思う意識がある(ま、預けたら、厄介はあちらって無責任さも有るのだが)。それが教育を「聖域」にしているのだ。我々は納税者だ。納税者は税金を払って「預けたら(払ったら)、託す」ってことでは、この国は成り立たないぞ。教師は公務員で公僕なんだ「先生様」では無くて子供の針路を決めるパーツなのだ。そこをアンタッチャブルにして、あなたの子供はあなたの思うように育たないのだ。
 ま、育児放棄しているならそれで良いのだけれど。
 通信教育の資料を取り寄せて受講料10万円と書かれてると躊躇するだろう。この講義にそれだけの価値(投資対効果)があるのかと疑う。しかし、子供の通っている大学の(投資対効果)なんてのは全然考えない。
それは子育ての愛情かもしれない。が、そこを利用して何の効果も無い「教育機関」が国民の税金も含めて「吸い取っている吸血鬼」になっている。
 全てがそうだとは言わない、ただ、この危機感は私立大学には深刻で、国立大学は安泰の左うちわって意識が気になる。国立って看板に胡座をかいて、どたんばで壊滅するのは環境に応じて形態を変えてきた私学よりもドラスティックに国公立大学に現れると思う。もしかしたらそのとき国公立は消滅するのかもしれない。私学助成は憲法で禁じられてる、現在の違憲状態を規制緩和できるのかどうかは「次の総理大臣、小沢一郎」(笑い)にかかってる。小学校から変えなくてはならない。
「最低限の教育程度に止めて時間をねん出し、ゆとり教育を行う」ってのは間違っている。「効率的な教育を目指す」ってのが本論だろう。僕は大学で講義の効率化をテストしている。毎週課題レポートの提出を行わせる。その課題は1年分事前にインターネットのホームページで掲載している。課題提出のための電子メールの使い方、課題を読むためのダウンロードの仕方。これを教えたら後は何時課題を提出しても良い。事前に1年分提出しても良い。
この方式で本当に学ばなくてはいけない学生を選別する(事前に出来る学生は課題を提出したら講義には出てこない)。その学生に知らなければいけないことを教える。知っている人間が出席簿のために講義を受けて爆睡状態になるのを防げる、学生一人当たりにさける時間が増える、全体のレベルが下から上がってくる。こんな効果がある。
小学校で「四角い教室で四角い机に向かい四角い黒板を見る授業」ここから変えなくてはいけない。授業の最初にテストを行う。予習してきた子供達は点数が高いからその時点で体育館で遊んでもらう。解らない子供に「何を聞いたテストなのか」を説明しながら授業を行う。これで立派に受験対応にもなるし学力の向上もはかれる。そんな方式を小学校から始めてはどうか。

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2002.05.30 Mint