自転車紀行記も変わりつつあるのかなぁ
このページと自転車紀行は別
今年(2002年)北海道を訪れる自転車乗り(チャリダー)は多いだろう。例年と比べて多いかどうかは解らないがインタネで検索するとリアル日記のページが多い。詳しくは
ここにリンクが有るが自転車の荷物にノート・パソコンを積まなくても手軽に携帯電話から日記形式の掲示板にリアルタイムな紀行記を書き込める時代に技術は進歩しているのだと気付かされる。
ここの最初のページに携帯で書き込み出来る日記を利用したのは、実はPHSから携帯に乗り換えるための事前準備(既に携帯から書き込みに成功したのだ。結局PHSを解約して携帯に切り替えてしまった。北海道ではPHSはやはり圏外が多い、結局auのGPS携帯にした)をしながら、つくづく便利な通信環境になったなぁと感じる。
技術的な話しだが、1987年にパソコン通信を始めた当時ネットワークってのは何処まで広がるのかにチャレンジする行為が多かった。僕自身も1989年にアメリカのポートランドから「日本語の電子メールを現地から送る」とか、1992年に「韓国から電子掲示板に書き込む」なんて挑戦を重ねていた。この頃の情報は
メインの北海道写真館の片隅の「Mint私小説」に有る。
で、既にモバイルがインターネットのホームページと連動しているのだ。携帯電話のサービスは昔、パソコン通信で四苦八苦した時の技術をあっさりと取り込んでしまったのだ。その結果「リアルタイム情報発信」が手軽に可能になって多くのホームページがたち上げられている。
何が目的の「旅」なのか
リンク集には気が付いたら加えている。その内容の「評価」なんてたいそうなことはしていない。同じ自転車を使って「旅」を続ける人の情報を集めたいと思っているだけなのだ。
先にプロジェクトXの項でも書いたが「テーマは何なのか」ってのが一番大事だと思う。プロジェクトXで描かれるプロジェクトがメンバーの結集を得たのはそれぞれの「テーマが明確」って一点に起因する思う。リーダは目標を明確に提示する義務を負うのだ。最初の頃の小泉純一郎に人々が期待したのはこの目標の提示であった。が、その後、それは「夢物語だった」と国民は覚醒するのだった。
個々人の旅だからどうでも良いのだけれど、ホームページを見る限り「見ている者」として問いたいのが先の「何が目的なのだ」ってことだ。
古い人間なのかもしれないが僕は紀行記は「振り返るもの」と思っている。リアルタイムと言いながらも結局リアルタイムでは無くて「思いだし」ながら書いているのだろう。体験したその日の夜に経験が「こなれて」いるとは思えない。時々非常に個人的体験に終始してるなぁと思われる日記を目にする。
もっと言うと「リアル紀行記」に何を求めているのか解らない。自転車の旅って誰の為でも無い、自分の挑戦なのだろう。だったら「行程詳細旅記録の公開」ってのの意味は何処に起因するのだろう。せいぜい「今日はここまで来た。道中雨」くらいのチャット的書き込みで良いと思う。詳細レポートは旅を通じて生長した後に書くべきだろう。考察を加える余裕が出来たときに書くべきなのだ。
「出迎えてやろうかな」なんてのを期待しているとしたら大いなる勘違いだ。自転車の旅ってのは自分から動かなければ(ペダルを踏まなければ)前に進まない。しかも自分の責任でペダルを踏む。誰かが待っているとか、誰かと逢いたいとか、そんな気持ちでペダルを踏むとしたら軟弱だ。自ら求めて前進するのだ、だから「インタネやってる人と出会いたい」なんて枠を絞った出会いなんて全然違うのだ。インタネで見つからない現地を目指して旅をするのだ、インタネの世界でクローズするのなら家でヒッキーやってても得られる情報なのだ。わざわざ汗かいて、自転車のペダル踏んで出かける意味は「そのに住む人と出会う」ためであって、「そこでインタネしている人と出会う」では無いのだ。
「たまこ」さんの書き込み
小樽で自転車全損事故を起こしたチャリダーのリアル掲示板で「たまこ」さんが「旅は失敗したのだ、出直せ」と書いていた。たしかに自転車での日本一周は冒険である。冒険には失敗が伴う。ただ、自転車ってのは気まぐれにポタリングすることも出来る。目標が何処に有るのかってのが失敗か継続かの分かれ道だろう。それは個々人の問題だ。
だが、目的を持たない冒険では無い「風来坊記」は本来公に公開する価値があるのだろうか。自己満足のみに終始してないだろうか。ここの僕のホームページと比べてドングリの背比べだ、が、それでも我が方に1%の分があると思う。僕は自己満足で書いてはいない。読んでもらいたくて書いているのだ。だから感情的な個人攻撃は書かない、攻撃している相手が居るとすればそれは公人なのだ。誰も僕の好き嫌いを読む気はしないだろう。
結局「テーマは何だ」ってことに尽きると思う。堀江謙一さんの太平洋横断にはその時々別々なテーマが有る。マッキンリーで亡くなったと思われる植村直己さんにもそれが有った。北海道を自転車で一周するとか一部走るとかの人々には勇気があると思う。その勇気をリアルタイムで公開する意味は有るのだろうか。勇気とは人に見てもらうものでは無いだろう。自分の心に蓄えるものだ。だって、北海道の現地でインタネしてる人って現地に少ないはずなのだから。
旅行記は「振り返って書くもの」と僕は思う。日々のメモは必要だろう。でも全体像は日々のメモとは違う大局的なものなのだ。その時に気が付かなくても複数の情報で思い出す事柄もある。
旅行メモを残す事を目的にしてしまった旅を「たまこ」さんは批判したのだろう。旅の目的は出会いなのだ。人との交流を避けて旅をしながら現地メモを送るのでは「移動ヒッキー」でしか無い。それは「見聞を広める」って旅の機能を果たしていない。せっかくの旅から得られるものをみすみす逃している。自分中心の旅に見えるのだなぁ。
目の前の人と逢え、話せ、感じろ
僕は別にヴァーチャルの世界を否定はしない。ただ、現地に出かけたらインタネなんか関係なく目にした人々と話したい。背後にインタネ仲間が居たとしても旅を作るのは僕自身なのだ。どうもリアル紀行記を見ると「現地は地図じゃない」ってのが忘れられて「地図レポート」に陥っている感がいなめない。なまじ現地を知っているので「あそこを見ただけではなぁ」と思う。と言うか、そもそも「現地感動のレポート」って感じが無い。スタンプラリーでスタンプをもらう場所を通過しただけって感じなのだ。
「今日もノルマこなした」って自転車労働者のプロレタリアート文学なのだ、多くのリアルタイム紀行記は。誰かのために走っている。そんなんで何を体験できるか疑問に思う。僕は「土曜日チャリダー」だが、行程には計画を持っている。計画を達成するためにペダルを踏む。そこに計画を達成した喜びがあるとともに、その記録を書きたいってインセンティブも生まれる。
だけど、時間が余るほど有って気ままな旅なんて人には解らないなろうなぁと思う事がある。それは「目標設定」である。先に書いた「テーマ性」でもある。やはり自転車で走りながらも貪欲になりますよ。限られた時間で最大の訪問記と思うと出会った人とのさりげない会話も心に残る。新冠町で役場の前で「にいちゃん、家にこんか」って言ってくれたじいさんの顔は今でも思い出す。あの人は旅する人間から情報を得たいってことなんだろう。
その意味では情報を運んでいる当人でもある訳で、多くの紀行記で不思議なのは老人世帯で宿を借りるほど地域で自らの旅人活動してないってことだ。逆に言えば本人は「旅人気取り」なのだろうが、地域が認めてないのだ。だからライダーハウスでしか泊まれないのだ。北海道は懐が広い。過疎の町で老人世帯にお世話になった紀行記が無いのは何故だ。
僕の亡くなった叔父さんは旅人を拾うのが好きだった。50歳にして離婚して実家で80歳の母親との二人暮らしをしながら車で出かけると旅人を拾って来た。「いいから飯喰って行け」、「風呂入って綺麗にしろ」。その様子を母親は(僕の祖母になる人だが)楽しみにしていたらしい。「また乞食拾って来て」とか言いながら食事を出していたらしい。そんな交流が有っても礼状は年に数通だったらしい。でも、毎年年賀状を送ってくる子のことは80歳になった祖母でも鮮明に憶えているらしい。それが「旅」なのだ。旅する事も楽しいし、旅人と接することも楽しい、それを作らなければ本当の旅では無いのだ。
目線が北海道に来て土地を見てるだけでは駄目で、人を見て欲しい。インタネに書く時間を地元での交流に使って欲しい。旅を通して人間は一人で生きて行けないのだと体感して欲しい。
北海道は土地では無い、住む人間
自分中心では無くて地域の人を描けと言いたい。それが出来て初めて「北海道紀行記」なのだ。どうも「ヒョーロン」な記述が多い。若いからなのか結局「自分捜しの旅」なのだ。自己中心でははるばる北海道に来た意味が無い。冒険てのは目標があって、それを達成した時に喜びも生まれるのだ。
気まぐれ旅も良いと思うが、ほとんどの人間は限られた時間で北海道を楽しむのだ。だから、走り中心になる。がしかし、ここは出身地と同じように人が住む大地なのだ。
人が住むのだ、旅行者で終わるのか「旅人」で終わるのか、それは自己責任だ。
北海道は「旅人」を待っている人々の集まりなのだ。だから、ライダーハウスなんて文化が芽生えるのだ。「遠路はるばる来てくれて有り難う」って感覚は北海道文化なのだ。「何時の汽車で来たの」ってのが旅館の受付での日常会話だったりする時期もあった。北海道を楽しんで(体験して)もらいたい。そのためにインタネでのレポートを捨ててみたらどうだろう。帰りついて書く「旅行記」、リアルな「生存証明」、この組み合わせで楽しめるホームページも結構有る。だが、僕は個別に評価したりはしない。みんな「自己責任でやってる」のだ。唯一「自分捜しの旅」ってのだけが僕にとって気になるのだ。
自己主張なのだインタネのホームページは。だから、自分捜しの泣き言を読まされるのは御免こうむりたい。それは「旅にテーマが有るか」、それだけだ。テーマの無い風来坊では無いと自己主張してもらいたいのだ。
それは繰り返すがそこに住む人々と情報交換することだ、自分だって結構他の地域の情報を得ているのだから伝えることが出来る。それが地元の人が旅人に求めるものだ。とにかく人と出会え。それが旅なのだ。インタネばっかりしていても旅は成就しない。