教育に聖域を作った輩
もう、どうでもえわ!
基本的に経済の構造改革も大事だと思うが日本の将来を考えるときに教育をまな板にあげなくてはいけないと思う。最近また愛国心なんてキーワードを交えて「教育基本法の改革」なんて叫んでいる審議委員会があるが、基本的に「業界団体の親父とお婆」ってメンバー構成だ。そのメンバーが提言する「教育改革」ってのは、手前味噌なのだ。何回も会を重ねて何も生み出さなかった教育審議会が今更何を提言するのだ。審議会の自己総括こそが必要なのであって、えらそうに「提言」なんてチャンチャラおかしい。
まったく、馬鹿なんだからぁ
愛国心から派生した「公への」教育ってのは解る。がしかし、これを国が行う教育手段に組み込む方針には首を傾げる。
そもそも、教育って行為には様々な目的があるのだが、義務教育では無くてさらに先の高等教育に限って話させてもらうと、ここには二つの目標が有って、知識を積み重ねる教育と社会を知る教育と分かれる。
「公への」教育は実は高校の授業で出てくる「哲学」の話しなのだ。ところが、これを小学校や中学校に持ち込もうとするから、現場の教師は訳の解らないまま拒絶反応を示すのだ。
「公の自覚」ってテーマを考えたらこれを小学生に求めるのは教育のプロの感覚を疑う。ま、太平洋戦争の頃を思い出して、小学校(尋常小学校)教育の問題が有ったと言いたいのならそれはそれで「頭悪い軍団」なのだが、「公を義務教育である小学生、中学生に教える」てのは何か違う。子供の発育に合わせて教育するのだろう。だとしたら「公の教育」なんてのは高校の課題じゃないのか。それこそ「義務教育」の域を越えたテーマなのだ。それを「教育基本法の改革」なんて中に取り込むべきでは無いのだ。そんな単純な事も解らない程に「有識者」は現場を、子供を、教育を知らないのだ。
そもそも「義務教育」ってのは親が子供に教育を受けさせる義務を負うってことなのだ。そのためには国家が確固たる「教育の必要性」を明示しなければならない。だが、今は、「教育する義務」みたいになってる。なんか違うぜ。
北朝鮮を見れば解ると思う(解らない人間が多いのだが)。
思想に関する教育はしてはいけない。それも自己を保ち得ない幼年世代には。これが答だろう。それ対して審議会の「公の教育」ってのは、薄っぺらくて、子を保つ親の意識にも到達してない文科省の役人の「無駄な」作文だと思う。
この国の教育には「哲学」が無い
寺小屋程の志しが有ればまだ救われるのだが、この国の教育には悪い意味のサラリーマン根性が蔓延している。現役の高校の教師と話した時に「情熱を持って教育をしている」って発言に接して「空回りやね!」と言ったら本人が逆ギレしたが、その意味が解らない「先生方の世界」に彼の土俵が有るのだ。ハッキリ言って「世間知らずの研究者で社会人としては新入社員程の知識も無い人間が社会を教える教育者で居られる世界が許される世界が日本なんだ」ってこと。
日本社会に何も役に立たないが誰も何も言わないので国民の税金を垂れ流しているのが今の義務教育の現状ではないだろうか。
僕は子供の親として小学校、中学校、高校の「ダラシナサ」を目の辺りにしてきた。そもそも集会に参加するのは主婦が多くて、残念だけれど「納税者のスタンス」をその場で期待するのは無理だろう。
そこの教師達を見ると、未熟ながらもがく人々には接した。でも、結局、世間知らずなのだ。自己満足の教育者なのだ。だから、妻が「24時間夫は頑張ってます」って放送番組に投書して、それはそれで終わってしまっているのだ。誰にとっても「アンタッチャブル」のまま50年残されたのは、教育は必要経費で、そこに巣喰う無責任に目を向けない暗黙の了解が出てしまい、国全体で義務教育に掛かる税金は必要経費になって聖域になったんだ。それで、いいのか、国会議員の誰もそこに踏み込まない、どちらかと言うと、その利権にスリ寄る。輩しか居ない。
専門学校と私大の違いは何か
いちおう某女子大の非常勤講師なので言っておくが、今の大学制度は専門学校なんて受け付けない程強固だ。そこを支える最大のものは「看板」である。この看板がとても専門学校には太刀打ちできないくらい強いのだ。
専門学校が「即戦力の育成」を目的にあえて、学校名を「○○専門学校」と唱っていれば良い時代は20年も過去のことなのだ。にも係わらず、専門学校は時代時代のトレンドに負けて学校名を変えている。例えば、札幌では「電波専門学校」が「総合技術専門学校」なんて名前に校名を変えている。これって、学生募集の営業のためだろうにぃ。卒業生が集うなんて事は根っから考えていない。単なる「営業手段」としか思えない。
実は、僕は40年も前になるが、高校に合格しなければ「電波専門学校」で無線師の資格を得て遠洋航海の漁船にでも乗ろうと本気で思っていたのだ。だから、学生集めの営業戦略である校名変更にはガッカリする。
で、私学なのだが、いちおう入試があるので学生は結構選抜されてるなと思う。ただ、残念なことに「寄らば大樹の影」的な精神を感じる。それも校風に集約されるのだが、やはり専門学校と大学は違うと思う。これは両方で非常勤講師したことが有るので肌に感じている。
私大も文科省の憲法違反の助成を受けて経営しているのだが、これが無くても成り立つ私学がこれから21世紀の私学像なのだろう。専門学校のようになるのか、大学としてのアイデンティティを追求するのか、それが21世紀の私学の選択肢なのだ。
僕は、アイデンティティが有る私大しか残らないと思っているのだけれど。
「公」とは何かが解るには人生経験が必要
教育は往々にしてゴールを急ぎすぎる。単位を与えるために「筆記試験」なんて手法が大学まで蔓延してるのがその典型だろう。民間企業では「人事考課」って手法で社員を評価している、がしかし、今の大学では「試験で点数稼いでね」の世界なのだ。
そんな世界に「公の教育」なんてのは全然通用しない。「試験屋」で何十年も勤めた人間に「量から質への変換」なんて言われても路頭に迷うだけだろう。
教える側が「公の教育」が解らない現場に、「公の教育」を振っても効果を得られないって事が解らないのか>文科省。