教育>学力低下を騒ぐ「抵抗勢力」

馬鹿馬鹿しいマスコミ報道
 そもそも教育が向かう目的は何処に有るのか。それを議論して「生きる力を育む(はぐくむ)」って方針を決めたのではないのか。それを「日本の小学5年生の40%は円の面積が計算できませんでぇ!」って統計を公表して、それに飛びつくマスコミってのは何を考えてるの、たぶん何も考えてない結果の報道なのだろう。最初にかましておこう。
まったく、馬鹿なんだからぁ!
何も見えない、何も解らない。ただ「学力が低下した」ってことで右往左往してる。その「学力」とは何なのかを自己の理念と対比して報道している人間は居ない。特に若い見てくれ看板のチンドン屋まがいのレポータは「大変な事です」みたいなレポートする。大変なのは「オメーがテレビに出てる事なのだ!」と僕はテレビの前で叫んでいる。
「学力低下」ってなんだ!
それは「生きる力」となんの関係も無い。そもそも「生きる力」を教育に導入したのだからどの程度「生きる力」が向上したかを調べるべきなのに「学力低下」なんて調査してるのは税金の無駄使いなのだ。教育に関する外郭団体がいかに多いかは国民周知なことである。その調査結果で右往左往してるマスコミも含めた情報操作は「反対勢力」の提灯行列でしか無いのに一生懸命報道しているマスコミは脳味噌が有るのかと疑う。
 円の面積が計算出来ると「生きる力」になるのか。台形の面積が計算出来ると「生きる力」が向上するのか。そのあたりの視点が無い。それがマスコミの仕事か! と僕は益々日本のマスコミがミスリードの象徴なのだと警鐘を鳴らしたい。今回の報道を見る限り「馬鹿」です。
 生きる力を育む教育大賛成、ゆとり教育も大賛成、ただし成績は落としたくない。そんなエゴが教育の現場に矛盾する命題を持ち込んだのではないか。本来、限られた時間で何を会得してもらうかを考えるのは国の方針では無く、現場の教師達の連係プレーであるはずで、そのために学校単位で方針を固めるのが良い。現場の教師が専門性を高めるが故に横の連絡が粗雑で教育の効率を下げてる現実に着目すべきだ。
 端的な話、中学校ではZは数学ではゼットと発音し、英語ではジィーと発音する。同一科目の理科でも「春の星座」は1月〜3月を指し、春の花は4月から6月をさしている。まったく、学識に現場が振り回されているのだ。

学力は基礎学力に限定するのが義務教育
 基礎学力ってなんだ! って質問が最初に予想されるのだが、これは明治維新の頃に福沢諭吉が唱えた「読み書き算盤」と定義したい。
教育の崩壊はカリキュラムに取り込まれる科目増大に現れてると思う。科目を新設して自己の傘下に納める一部の権力志向の学者が文部省の役人を懐柔して数々の科目が義務教育に取り入れられたのが戦後の混乱期の「新興勢力の既得権」なのだ。これを読んでいる人は大人が多いと思うが、小学校の科目で「本当に必要なのかなぁ」と思ったものは無かっただろうか。僕の経験は40年も前なので現在の現場と違うかも知れないが、小学校で「歴史」を教えるのは違和感が有った。加えて中学校の地理で「アフリカの金の産地」なんかを知る必要性を感じなかった。当時は石炭が資源でベトナムのホンボイだかの炭鉱の名前を言えなんて試験問題に接して、この人(出題者)は教育に何を求めているのだろうと疑問に思った。
 当時(中学生)の事件なのだが、理科の試験に「この星座が見える季節は何時か」って設問があって「春夏秋冬」の選択肢が有った。試験問題への質問に応じるために担当の理科の教師が教室を巡回してくるのだが僕は「季節って個人個人の考え方の違いがあるので、月で書かないと正解になりません」と質問した。その答は「常識で考えろ、夏の星座は夏に現れるのだ」って答えだった。試験中だったが「国語では梅が咲けば春、理科では春の星座が見えたら春、まったく、いいかげんだぁ」とヤジを入れた。
その後、職員室に呼び出されて「なんで素直に答えられない」と叱責された。が、僕は「数学ではxyzをゼット軸って言えって言う。だけど英語の授業でゼットって言うと「馬鹿か、おめー」と言われてる、英語の授業ではZはジーが常識だと言われる。それって我々の問題では無くて先生側の問題だと思うのですが、それに関して英語の先生はどのように考えているのですか。ね、先生」と横に居た英語の先生に振って切り替えした。
「解った、帰って良い」って高圧的な返事だった。大人って自らの権力を誇示しようと思っているのだなぁ、だけど、矛盾を付かれると避けて「帰って良い」なんて都合の良い言葉を使うのだって勉強になった。
 これが「生きる力」なのだ。馬鹿な教師には説教する中学生。これを「生きる力」なのだ。僕は文部省が表明する以前に実践していたのだ。これは「生きる力学科」で勉強出来るものでは無い。それを計る指針も無いのかもしれない。だから、円の面積をおぼえたことよりも、この事件を僕は思い出す。理科の教師は中学生をなめてかかったシッペガエシをされたのだ、それを出来ることが「生きる力」なのだ。もっと言えば「駄目教師を粉砕する」のが「生きる力なのだ」と僕は全学連世代末期として思う。

ついでだから、もっと「逆生きる力」
 これも世代ギャップが有って分かりづらい話しなのだが、僕が小学生だった頃の小学校にはホームルーム(これって、造語以前にイミフメじゃん)のような学級会てのがあって、民主主義の基本は会議とかなんとか訳も解らないまま教育現場で導入されていた。
 ここで議題を提示して議論しなければならない(って、教育制度に組まれてたのかぁ>ワシ)ので「給食を残す人をどうしますか」なんて今考えるとヒットラーも「全体主義だ」と批判するような全体主義的些末な命題を教師が提示した。
 まだ小学生だったので与えられた命題には一生懸命考えるタイプの僕だったので一生懸命考えた。たしかに、給食は楽しみでもあり、それを残すってのは今の言葉で言えば「自分的」には考えられなかった。
 で、手を上げて発言した「給食を美味しくすれば残す人は居なくなると思います」これって昭和36年ころのワシの発言。これって本質じゃないの? だけど当時は限られた栄養士が作った給食を残すのはご法度みたいな時代だったのだ。「栄養士が人生担ってくれるんかい!」って意見も通じない時代だったのだ。
 で、この僕の意見に担当教諭(女性)が声が裏がえって「そんなことは解ってるの、その上でどうするの!」なんて絶叫したのだが、僕に言わせれば「旨くないもんは喰わない」ってのが本質だから、残り物を無駄になったって言うのは作る側の論理であって喰う側に押しつけてもらいたくないと思った。
ここに本質が有ると思う。教育を受けた側からの発言で教育を改革する制度が出来てない。福沢諭吉の時代(明治初期)と比べても教育は「受ける側の論理」を無視し続けたのだ、それが「学力低下」とか言ってるが、基本的に個々の子供を見ていないのだ。だから 教育荒廃が起こる。
 そろそろ「21世紀のネット学校が既存の教育を壊す時代なのかなぁ」と僕は考え始めてる。その話しは別な項目で起こしたい。基本的に「利用者本位」の思想がインターネットに有り、それが既存の社会制度を改革していくのだってのが僕の考えの基本なのだ。だから、今回の「学力低下」は教育問題では無くて、既得権争いにしか見えない。
円の面積の計算式を知っても、それで人間はHAPPYにはなれない。そのことへの考察が無い今の教育制度は「自己チュウ」で滅びる恐竜なのだ。(滅びるまでは生き続けると思うけど)

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2002.12.14 Mint