教育>受験勉強と学ぶ事は全然別
日本人は聖域に対して「お人好し」
「テレビ寺小屋」って番組があるのだが、北海道では日曜日の午前6時30分から放送されてる。講演会の形式で行われてる模様を収録して放送しているのだが、現場に居る人でしか解らない話しを聞けるのでちょくちょく見ている。山形弁の外国人タレントが今週話しをしていた。「日本人は何故英語を話せないのか」って話し。基本は最初に「This is a pen」を習うが、英語の用法で一番難しいのがbe動詞。これから英語に入るのは日本では英語教育は学問しか無くなってるいる、ネイティブでも難しいbe動詞から英語に接する日本人が英語を話せないのは当然だ、って話しだった。
実は僕は大学時代に英検に挑戦したことがある。試験会場が当時の居住区から見たら遠隔地で受験は出来なかったが、この対策本を読んで驚いた。中学校から学んだ「英語」がまったく意味が無いって事が解ったのだ。英語を学ぶってことは学問では無くて異なる言語の人々と意志疎通するってことなんだってことがこの試験を勉強して解った。
今まで日本人は何故、英語を学問にして、義務教育に取り込み、中学校での授業カリキュラムに取り込んだのだろう。それって、アメリカの指示?
全然おかしいのだ。国際感覚を養うのに「英語」だってのは外からのバイアスがかかりすぎている。英語が出来れば「国際人」てのもなんかおかしい。世界で人口比で一番語られてるのは中国語(多くの方言を含んで)なのだ。だから英語教育に国際感覚って錦の御旗は論理矛盾しているのだ。
結局、英語を教えて飯の種にするって輩が決めた英語教育に成り下がってしまったのが現在の日本における英語教育の問題点だろう。この層に共通するのはネイティブの外国人を極端に嫌う。日本で使われてる英語のオーソリティではあるが、世界で使われてる英語はまるで知らない。英語を授業とし、試験をするのがこれらの層の関心事で、ネティブに教室を荒らされたくないと考えているふしがある。
英語を試験科目にするな
「学ぶ」ってなんだろうかって最近僕は考えている。「生きる力を養う」ってことと「学力試験」は両立しないのでは無いだろうか。「生きる力」って測定不能な事をスローガンにした委員会もすごいけれど、文部科学省は「計れるもの」で説得力を得たいのではないか。そのために国際感覚の窓口である英語教育を「話せる英語」から「学問としての英語」に置き換えてしまったのだ。このあたりは当時のGHQの能力の無さだが、ま、敗戦国統治の中で教育制度は旧体制撲滅だけだったのだろう。だから「学問としての英語」を優遇してしまったのだろう。その時代から60年も経たのに、既得権はゆるぎの無い権威として今の英語教育に残っている。
他の国の言語を国立(国が運営する)教育機関の選抜試験で採用されているってこと事態が何かおかしく無いか。国立大学の入学に「英語」が必要って説得力は全然感じない。制度だから英語が有る、ただ、それだけだろう。必然性には誰も考えが及ばないのだ。国民税金で運営される国立大学で「英語神話」が有るのに対して国民は何も思わないのが日本らしい。
日本語もしゃべれないのに、それとは別に英語の試験をして、その成績が高い人間が合格するなんてのは大学の自滅なのだ。今の大学生を見れば解る。「小学校で英語、大学で敬語」ってくらい話す能力が不足している。英語を話すってことでは無くて、日本語すら満足に話せない現状を誰が対策を考えるのか。結局「話せない英語」と同じなのだ。社会人教育ってのは教育の世界では誰も唱えなかったので科目になっていないのだ。この科目をカリキュラムに居れたいって人々は現在の教育の将来を諦めてるのでアウトサイダーになっている。だから、国民に伝わることは無い。そして税金は「英語学者の既得権」に流れる。
英語を学ぶ目的が国際感覚ならそれは「読書」と同じ個人の教養の世界なのだ。それを採点する制度って誰が認めたんや! 教育カリキュラムに取り込んだのは文部科学省だが説得力有る意見は無いだろう「前例」だけが英語科目を中学校に存在させてるのだ。まったく、前例主義の典型だろう。誰か受験科目に「英語」があるのは日本として国家感を疑うと言えよ。
採点することで喰ってる「教育者」
考えてみると一番おかしいのがペーパーテストで点数を計ることが教育なのだって制度なのではないだろうか。学生が(僕は大学で教えているのだ、あえて学生と言うが)学んだかどうかをペーパーテストで計るって人間が教育を解ってるのだろうか。社会は結果よりも「意欲」を評価するのだ。どうせ新人なのだから、積極性が有れば「ものになる」って考えなのだ。ところが、教育のいわゆるプロ(それで飯喰ってる人々)は「自分が教えた事に答えられるか」ってとんでも無い個人的価値観で学力を認定している。それって、ちゃうやろぉって誰も言わない。
今でも教育者は「先生様」なのかぁ。
僕は大学で非常勤で教えながら「人間は他人を採点できない」って信念を持っている。大学生クラスになると社会もそこそこ解りつつあるので一番辛いのが「先生を評価する目を持っている」ってこと。教育を担当すると解るのだけれど教師って権力が有る。単位を与えるかどうかは全て個人である教師に任されている。それを不変的にするための指導要項も有るのだが、基本的に現場では「個人プレー」である。(僕もその一人なので批判を受ける立場なのだが)
で、信頼できる人間かどうかを学生は良くみていると思う。それは僕から見たら「大人やなぁ」って感覚なのだけれど、教育ド素人の僕に相談に来る先生が居る。同じ非常勤講師の方なのだが「学生の私語がが多くて授業にならないんですよね。先生の講義はどうですか」って聞かれた。
僕は正直目がテンになった。ここでは高校の教頭か校長を勤めてリタイアした人が非常勤講師してるのだが「今更相談かい!」と思った。非常勤講師室ってのが有るのだが、高校の校長を勤めた人が「挨拶出来ない」。
僕は前にも書いたが会社での採用でギリギリの時には親が商人な子を選ぶ。親が公務員だったり教師だったりする子は落とす。その理由が「挨拶も出来ない教育者」って体験から出ているのだ。まさに、その「先入観」を確認した。
仕事で「帯広高等看護学院」をおとずれた。ここの学院生は学内をうろうろしている僕に「こんにちは」、「お世話になります」と声をかけてくる。教育は躾なのだ。それが出来てからの学問なのだ。僕は帯広高等看護学院の子供達は幸せだと思う。それは、挨拶から始まる人間関係ってことを取得しているのだ。学力なんてスケールでは無くて人間ってスケールで120%の教えを体得しているのだ。僕の行ってる大学でも「挨拶出来る」ってことは個々人の感性に任されているのだが、教育が躾を外したのが教育の問題点なのだ。躾って男女問わない、身を美しく見せる。それを家庭で出来ない現状では教育の範疇に入れる機関が存在出来るのだと僕は思う。