日教組大会で混乱してる「学力低下」

学力って何なんだって切り口から始まる
 先に書いたように「学力低下」は改革を批判する抵抗勢力のスローガンなのだ。だから改革すると学力が低下する例示として各種資料を持ち出してきてマスコミにプロバガンダさせてる。
 我々国民は馬鹿じゃない。マスコミの未熟な記者が「学力低下って大変だぁ」なんて言ってる。その記者そのものに「学力低下」を感じるのだ。
 おりしも日教組は「学力低下」をテーマに勉強会を開いた。そこでパネラーの人選を間違ったと言うより日教組自体が方針を提示出来ないのか「そもそも、学力ってなんだ!」って討議になってしまったらしい。そのとうりだと思う。学力は成績と違うのだ。四角い教室で四角い机に向かい四角い黒板で得られるものは「成績」なのだ。それは学力と違う。
 両親代表が「高尚な学力へのご意見も有りましたが、今の競争社会では他の子供の上を行く学力が必要なのだ」と述べたが、ま、言葉のアヤとしたくないが「学力」と「成績」をはき違えているのだ。
 新聞を中心にした朝日グループの記者が言葉を選べない貧困さにはあきれかえるが、明らかに学者が言っているのが「生きる力としての知恵の力」、PTA代表のような親が言っているのが「成績」。この違いを明確に区分出来ない日教組も馬鹿だが、それを整理出来ない学者も馬鹿だ。まして、わけわかめで「研修会混迷」なんて書く朝日新聞も馬鹿なのだ。全ての人間、団体に「学力」が無い。
 教育は記憶と植えつける行為のみに限定するから現場が混乱する。本来は社会人として共同生活を送る人間を育てる教育(義務教育)と、高度な専門性を持った人材を育成する高等教育、そして、最高学府である大学の場面場面で目的を違えて行われなければならない。ミソもクソも一緒ってのは全然いただけない。せめて、小学校教育に絞って論議を深めなければ議論は深まらない。

教育が人を育てず、教育産業を育てている
 言葉を的確に使うと事象が解ってくるのだ。「学力」と「成績」の議論に分けて考えることが大切だ。そして我々は税金を負担しながら義務教育制度に「学力」を求めているのだ。だから、「成績」を求める人は義務教育制度とは別な所で考えてもらいたい。国民は税金をを個々人の「成績」に使って良いとは思っていないのだ。成績が上がらないのならば国民の税金で運営されている学校に求めるのでは無く、成績向上専門の民間組織に求めれば良いのだ。
 そこで初めて「成績」てのが人生に何の価値も無い事が解るだろう。それを国民の税金で運営されている公共機関である義務教育の学校に求めるのはエゴイズムなのだ。税金をわが子だけに使いたいてエゴイズムだと解らなくてはいけない。
 教育産業で「成績」を上げたければ上げれば良い。だけど、それは「教育」では無くて「成績」なのだ。それを解って、でも社会として必要悪と思って感受するのならそれはそれで良い。しかし、国民と言うか納税者のほとんどは子供を義務教育に通わせている世代とは違うのだ。税金が何に使われるかを考えるときに文部科学省の予算はまさに「国民の学力向上」に使われなくてはならない。それが「個々人の成績向上」に使われていたのが古き日本の体質であり新しい日本のためには改革しなければならないのだ。
その論議を重ねてこそ新しい日本が見えてくるのだが、具体的に(僕は「愚大敵」にと書きたいのだが)教育基本法改革だと言う。違うだろう、教育を考え、その「のち」、教育基本法の問題点が明らかになるプロセスを踏まなくてはいけないのだ。

教育こそ「正論」で貫くべきなのだ
 ロジスティックって言葉がある。日本語で言えば物流の補給って感じだろうか。太平洋戦争の頃に「日本はアメリカの物量に負けた」って意見が多い。正確には生産した武器を前線に送る補給ルートが日本軍と比べて高度だったのだってことだと思う。この軍隊の物量作戦を保つのは、戦争だから経済性は求めないってことなのだ。今の時代投資対効果ってのは事業を評価するスケールなのだ。ただ、戦争の場合はそれが除外される。効率よりも機能することが求められてるのだ。だから、物流を使命としている業界がロジスティックなんて戦時の経済性を無視した補給を勉強するのはお門違いなのだが、各地の業者主導の勉強会に熱心なのは「馬っ鹿じゃないの」
 実は教育の現場も同じだと思う。経済性を無視してでも義務教育を堅持してきた。それはそれで良かったと思う。教育は経済の土俵で語られては「義務教育」(親が子供を働かすのでは無く、子供に教育を受けさせる「義務」が有る)が成り立たないからだ。でも、僕は今、思うのだけれどこれって「聖域」を作っただけだったのではないか。成績を求めた高校受験のための教育、学力を求めた大学教育。同じ「教育」なのに、目指す着地点が違う。だいたい大学の教授達は「日教組」を勉強してるのかなぁ。
先の戦時のロジスティックと同じだと思う。民間感覚の「効率」が及ばない聖域でどれだけ努力したのか。結局「野放し」だったのだろう。だから、日教組に「学力と成績」区別する力も無くなったのだ。「先生様の集団」がこの始末だ。僕は義務教育は経済性無視で良いと思う。ただし、それが国民の認知を得る努力をした時にはって条件が付く。今の義務教育の現場は「日教組」、「北教祖」が組織として存在するにも係わらず「自己チュウ」集団で、税金を負担している、言ってみれば自らの顧客への納得できる説明が出来ていない。
 また、逆に義務教育以降は民間も含めた効率的な「学力獲得の市場解放」を考えて行きたい。教育が義務教育以降も含めて一括で語られるべきでは無い。義務教育への確固たる正論。それ以降の教育に対する確固たる正論。それを議論することが必要なのだ。
 小学生も中学生も高校生も大学生も味噌もくそも一緒って考え方は国民が自己責任を放棄していると思う。「教育」って呪文では無くて、個々の世代に合わせたあり方を人生の先輩として考える所に「教育はどうあるべきか」の土俵があるのでは無いだろうか。
 日教組や文部科学省に我々は預け過ぎたのではないだろうか。自分でチェックしなければ民主主義、主権在民は成り立たない。誰かに「お委せ民主主義」を反省すべきは我々なのかもしれない。

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2003.01.27 Mint