1945>日本は進駐軍に何故なびいたか

軍国主義の台風一過
 アメリカの対イラク問題とは外れるが、少し書いておきたい事がある。それは、1945年8月15日、いわゆる昭和天皇の玉音放送を受けて日本の社会が何故あれほどドラスティックに変われたのだろうかって事を考えてみたい。
当時はまだ生きていないので先人が書いた資料を読みながら考えるのだが、基本的に「軍部の支配」については市民はNoだったのだ。その意志が政治に反映されない時代が続いたのだ。しかしアメリカの戦勝、日本の敗戦によって「軍部の支配」が解消された時に当時の国民は「ありがとう、マッカーサ元帥」みたいな報道に行き着いたようだ。これは毎日新聞、朝日新聞どちらも同じ姿勢で報道していたのだ。
 アメリカのおかげで日本に民主主義が定着することは喜ばしいって論調がメディアから流されて、日本国民は「悪を断って正義をなすのはアメリカだ」とマスコミの情報を受けて感じただろう。その意味で「弱虫の腰砕け」の青二才が多いジャーナリストがアメリカに迎合したのだ。でもそれはメディアの話しであって、国民の話しでは無い。
 国民は今でも「何故あの戦争の昭和時代が起こったのか」を模索している。多くの人は過去は忘れたほうが良いと思っているが、実はこの問いかけに結論が出ていないのだ。だから、昨年に田原総一郎氏が「戦争論」なんかを出版している。誰も「何故あの戦争の昭和時代が起こったのか」を知らないうちに歴史の中に風化していくのを昭和一桁世代の田原氏は勢力的に取材して答を出したいと考えたのだろう。
 現実に日本が欧米列強と互して(互する必要があったかどうか議論はあるが)世界に出ていくにはマーケットが必要であった。資源搾取のために植民地だけでは無く、工業製品を消費する市場としての植民地も必要とした。その市場開拓が経済の発展と共に求められ、自然発生的に満州国立国へと経済的理由で流れていった。それをあと追いで陸軍が進出し、それを愉快に思わない米国が戦争を仕掛けて来た。これに、乗ってしまった日本の政治ってのが昭和のカタルシスの背景ではないだろうか。

結局、戦争の時代の責任は誰もとらな
 昨今の首相の靖国神社参拝で必ず出てくるのが「A級戦犯が奉られてる神社」って言葉が出てくる。この件に関して僕は「A級戦犯は戦勝国が決めたもので日本人の感覚とは違う」と思っている。現在「東京裁判」と呼ばれている裁判での判決としてA級戦犯なのだ。当時敗戦国として占領状態に有り、連合国が国家であった時代にA級戦犯と烙印を押された。それが事実なのだ。
 同様に「戦犯」って烙印は戦勝側の論理でしか無い。それは映画「私は貝になりたい」で描かれてるが、多くの日本人はそれを「理不尽な時代」として捉えていない。日本が国家として独立したのはその後7年を経て昭和27年。今の5月3日の憲法記念日からである。有る意味僕はそれより少し前に生まれたので「国籍」を問われれば世界的考え方で言えば「進駐軍国家生まれ」なのだが。
 では翻っていわゆる「東京裁判」に替わる日本人が運営した戦争責任を追求する行為は有っただろうか。実は皆無なのだ。だから、今、日本人は「昭和の戦争の時代は何故発生したのか」を解らないでいる。だから「小林よしのり」の戦争論とかに振り回される。小林よしのりの観点は一つの観点である。それが絶対的なものでは無い。意見は意見として検討の土俵に乗せるが、結論では無い。
 僕は「日本人は戦争に至った昭和の時代を振り返りたくない」のだと思っている。明治維新から日本が世界の舞台に出ていくには数々の事件が有った。日清戦争、日露戦争はアジアの覇権を日本が得るための戦争だった。でも、日韓併合あたりから日本がアジアの統治者になりつつあった。僕の歴史観では当時の韓国は国際社会での独立国家たる機能が不足していたのを日本に付け込まれたって漢感じの日韓併合なのだが、これを中国にまで延長した当時の施策には疑問を感じる。
 でもタイトルに有るように、過去を学ぶ事を放棄しているのが先の戦争で犠牲になった人々への最大の無責任だと思う。歴史観は多々有って良いのだが、その議論を封印するような姿勢には疑問を呈したい。土井たかこが護憲を叫ぶのも解るが、まず、昭和の時代を伝導することから始めないと土俵は出来ないだろう。でも、60年も前の話しを持ち出しても誰も振り返らない時代になっているのだ。

農耕民族故の悲劇なのか
 僕は個人の歴史観で「政治がテロにおびえ屈した昭和初期」と思っている。政治が腐っていたのだ。シビリアンコントロールと言うが基本的に政治家は国家うんぬんよりも自分の命を考える。ま、人間として自分が生きているから社会なのであって自分が死んだ後の社会なんて相当見識が高くなければ語れないのだ。本当は、我々が政治家に預託しているのはこの「見識に高さ」なのだが、応じられない議員も多い。
 当時(1945)の状況で言えば、広島、長崎に原爆を落とした後は東京の皇居だよって事で「玉本放送」にならざるを得なかったのではないかと思う。昭和天皇は亡くなったので確認出来ないが、原爆ってのは自分を殺す兵器だと解った瞬間に戦争を自分の死として初めて認識出来たのではないだろうか。
 原子爆弾によって戦争が前線のみで行われるのではなく、銃後も戦場になり、生命の危機は銃後にもおよぶ。その意味で、その後「戦略兵器」に位置付けられる核兵器の用法なのだ。軍政がやはて「台風一過」で無くなるとジット台風の過ぎ去るのを待っていたのだが、台風は過ぎそうもない。一過を待っている間に自分の生命まで危うくなった、そこで始めて動き出す、農耕民族の持つ文化土壌が戦争を長引かせたのではないだろうか。

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2003.02.10 Mint