北海道でこそ体験できる「春の予感」

生臭い話しは少し置いといて
 「春の予感」って言葉で南沙織を思い出す世代はインタネには少数派だろう。ほとんど居ないかもしれない。北海道にも春が来ている。この春の受け留め方が東北や北海道では一般感覚とかなり違うと思う。三寒四温を繰り返して徐々に気温が上がってくるのでは無く、夜間の気温がプラスを境に劇的に雪が消えていくのが「北国の春」なのだ。「土の香が戻ってくる春」ってのが積雪地帯での一般的な春の感覚では無いだろうか。
 中学生の頃だと思うが、まだ雪が多い2月に家の前の雪の山にカマクラを掘ったことがある。数日して入り口の囲いを取り払って入ってみると土の香がした。何処を見ても雪が積もった風景の中でこのカマクラは深く掘ったせいかもしれないが、地面が出ていて、そこに土の香が保存されたのだろう。
 今の北海道の札幌では「土の香」なんて話題は誰にも解らないのかもしれない。雪が覆いつくす季節に、新しい季節の「予感」を持って生きてきたのは北海道の先住民族であったアイヌの知恵ではなかったかと思う。その「春の予感」を何処で感じたのだろう。僕がカマクラの土の匂いを感じたように、先住民族であるアイヌの人々は雪で覆われた大地を見ながら「春の予感」を感じていたのだと思う。
僕の「春の予感」は地面が出てくるって感覚なのだ。昔、2月に東京に出張が有って、新宿の住友ビルから見おろした道路のセンターラインが凄く新鮮だったことが有る。センターラインが見えるのは北海道では「春の予感」なのだ。にも係わらず東京では何時でもセンターラインが見られる。でも、千歳空港に戻った瞬間に「寒さ」から妙に足が地に付いた感覚を得たのだった。でも、冬でもセンターラインが見える地域って、逆に「春の予感」を感じないだろうなぁって感覚も僕に有る。

劇的に変わる北国の春
 あえて「北国」とは言いたくないのだけれど、これは住んでみないと解らないと思う。僕は「春」を描いた歌謡曲を沢山知っているが、南沙織の「春の予感」は何となく解る。でも、本当に北国の春を伝えるのはそこに住まないと解らないと思う。「北の国から」で解るように、風呂に入って語るってことを大切にしたい。
 最近では札幌でもマンション暮らしが多くなり「雪かき」なんて個々人が家の周りの除雪を行う事も少なくなった。わが家はメゾネットタイプなので雪が降ると「雪かき」が必要になる。冬の運動不足を「雪かき」が補ってくれる。全国の成人の体力測定で何故か北海道人は握力が高いのは、この「雪かき」でスコップを振り回すからでは無いかと僕は思っている。
 もう一つの楽しみ(僕にとっては楽しみなのだが)が氷割りである。いくら「雪かき」で除雪、排雪しても表面に残った雪は踏み固められて氷になる。地面を10cm程の厚さで覆う。これを春の訪れとともにツルハシ(鶴嘴と書くらしい)を使って割る。もちろん、割った後には地面が顔をのぞかせる。しかし、時期を間違うと折角氷を割って出した地面も再度の降雪で埋もれてしまう。
このツルハシを振るって地面を出す作業(加えて、氷を溶かす)が楽しい。日光が出ていると割った氷を放置しておいても水になって流れていく。この水の流れを溝を掘ってマンホールや下水口に誘導する。この氷の地面に掘った溝が流水によって融けて大きくなっていく。
 こんな楽しみ(と、言うか自然との会話と言うか)は北国でなければ味わえない。
 小学校に入る前だったが何もしなくても融ける雪なのだが、春の天気の良い日に父親が庭の雪を掘って庭の石を日の光に当てて「今年も、春が来たなぁ」なんて言っていた。12月の積雪(降った雪が融けないで積もったものを根雪(ネユキ)と呼ぶ)から4ヶ月も庭の石を見られなかった、だけど3月の日差しとともに雪の下から出て来た、それも自分が雪を掘ったおかげだ、って感覚が有ったのだろう。
 実は雪は自分で手を加えて早く春を向かえる事が出来る対象なのだ。今年も雪との付き合いは終わりかぁ、てのが北国の「春の予感」だろう。

北海道の文化 劇的に変わる北国の春
 まさに、春の訪れが体感出来るのが北海道を含めて積雪地帯の楽しみだと思う。昔のキャンディズの「雪が融けて川になって流れて行きます」なんて歌詞も東京では解らないだろう。僕たちは全国一律教育の中で音楽の時間に「春のうららの隅田川」って部分が逆にキャンディズの「川になって」のイメージだったのだ。だから、隅田川を実際に見た時に「春でも夏でも流れてるじゃん!」と思った。
「春の小川」もそうなんだけれど、雪解けを知っている人にとって小川って雪解けの時にだけ現れる川って感覚無いかなぁ。僕は小川って言葉からイメージするのは雪解け水か水道管の漏れで急に現れた水溜まり(そんなの今は全然無いけど)だなぁ。
 雪は文化だと思う。生活を制約するが、それは生活環境を小刻みに変化させている。まさに「四季が有る日本」の中で一番ダイナミックな要素が雪なのかもしれない。
 僕にはほう一つ「春の予感」の話しがある。小学校入学直前の春だったと思うが、春になって自転車を引っ張り出して走った時に、なんとなく補助輪無しで走れる感じがした。で、それまで付けていた自転車の補助輪を自分で(なんで、6歳でスパナを使えたのか今では良く解らない)外して走ってみると本当に補助輪無しで走れた。春は生長した自分の確認でもあったのだ。僕が2輪で自転車に乗れたのはこの時だった。
 もっとも、当時の道路なんて舗装もされてないので融けた雪で泥になった所に突っ込んでハンドルを取られ、転んで泥だらけになったのだが。
そうだ、自転車に乗れるってのも「春の予感」なのだ。
今年も頑張るぞぉ、あと約40市町村なんだ

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2003.04.02 Mint