小説「日本沈没」、時代を越えて語れる

阪神・淡路大震災の時に再版されたらしい
 札幌でも夏場はフリーマーケットが盛んだが、特に目新しい商品を購入する機会は薄れてしまった。それは、欲しいものはヤフオクで入手可能なので、特に安いなら購入するが、フリマで狙った商品は購入してしまったってこともある。我が家のステレオのスピーカーは3セットばかりフリマで購入したものに入れ替えている。スピーカーは好み もあるが所詮音の「出口」で、コンパクトでそこそこの音が出れば良い。輸送費を負担してまで買う商品では無い。だから、今使っているものより使い勝手が良く、そこそこの値段ならフリマで購入していた。だから、全てsonyのスピーカーになったのだが。
 そんなフリマに通う家族にお付き合いしていると、購入する物が無いので本に目が行く。光文社文庫の「日本沈没」が目に入った。1995年に阪神大震災を受けて22年を経て再版された文庫本だ。
昔、読んだ本だが既に本棚に無いので、改めて今読むとどんなのか1冊50円を良いことに上下刊を購入する。で、わるい癖で脇の公園で早速読みはじめる。
巻頭に作者の小松左京氏の再版に当たってのコメントが有る。小松左京氏も感じていない「一つの国家の終わり」って命題が今の時代2003年に有るのだ。それはイラク問題であり北朝鮮問題なのだが。
22年ぶりの再版との事だが僕にとっては30年を経て、再度「日本沈没」を読むことになった。

人間、歳をかさねると物の見かたが変わる
僕の友人に40歳になって夏目漱石の「こころ」を読んで感動したって人間が居る。ま、コンピュータ技術者ってのはそんな世間知らずかなと嘲笑していたのだが、どうも自分も歳によって同じ作品が別な受け止め方になるようだ。昔読んだ時に日本国土が沈没する時の総理大臣が一人で悩む部分は読み飛ばしていたのだが、今は興味深く読んだ、総理大臣としての苦悩が解る。時代が自分を「日本沈没時の総理大臣」と位置づけた苦悩の描写は、今の歳になって一字一句読み飛ばしもせずに読み進んだ。その苦悩が解るなんておこがましいが、その心境に近づいたのかもしれない。
主人公の小野寺に対しても「若いなぁ」って感覚で読み進む自分が有る。なんとも、小説ってのはそれぞれの人生経験によって解釈が違うのだって事が体験として解った。ま、SF小説は使われる技術に旬が有るので、この部分には時代を感じるのだが。
 一番昔と違った部分は最後に日本を脱出する人々の中に、日本と共に(これは国土って意味だが)死のう、日本って国土が無くなるなら自分も生きていけない。って感覚で高齢者が避難船の待合所から船に乗らず沈没する国土に向かって消えていく話。「特に男性高齢者にその傾向が多い」って部分は昔読んだときに見過ごしていた描写だった。歳のせいなのか人生経験が咀嚼力を高めるのか、その描写と感情が伝わる。国は「領土、人民、主権」が有っての国なのだ、日本人が世界各国に避難して生命は取り留めても、国家を失った時に「いったい日本国ってなんなんだ」って問いかけに答えは無い。その意味で「時代の貧乏籤を引いた」みたいなことでは無く、総理大臣ってののリーダーシップ責任は重いのだ。

今は「日本沈没」なのか
 再度考えてみると国家は「国民、領土、主権」で独立した国家として認められる。今のイラクが要件を満たしていないのは「主権」が確立されてないからだ。日本に関して言えば北方領土の問題はあるが、この3者は安定的に存在する。
但し、一番危ういのは「主権」ではないだろうか。アメリカ追従の外交で良かった(たぶん、これからもこの選択肢は安泰なのだろう)時代をそのまま追従するのか。そもそも、アメリカが20万人の兵力を進駐させた時代に恫喝的に認証された憲法に「政治」の原点を求めるのか、僕ははなはだ先人達の選択を疑問に思う。僕の考えでは敗戦時にポツダム宣言を受諾し、東京湾上のミズーリーで敗戦調印した時点で戦争には負けた。だが、国の運営の基本である「憲法」すら何のポリシーも無くアメリカの作文を受け入れてしまったのは先人の責任だと思う。今の財政赤字と同じだ、子孫に何を残そうが今の「自分がかわいい」って選択肢だったのだ。
長い歴史のな中で憲法は「国家を明示する」ものだ。その意味で日本書紀が編纂されたのは、非常に政治的判断で、日本が国家として独立してることを海外に明示するための編纂だったのだ。つまり、古代では国は「領土、国民、明文化されたイワレ」の3つで成り立っていたのだ。今のような政治制度が無かったので、これに替わるものが明文化された国のなりわいだったのだ。今の時代、それを憲法と考えることが出来ると思う。
諸外国の憲法の憲法改正手続きが参考になる。例えばフランスの憲法はドイツに占領された歴史も踏まえてなのだろうが「領土の一部mおしくは全部が外国の占領下にある時は憲法改定への着手を禁ずる」って条文(94条)がある。ブラジルは戒厳令下での憲法改定を禁じている。かたや日本は20万人のアメリカ兵が駐留する中で主権の無いまま承認(審議)され、その結果を占領軍最高司令官の採決承認を必要としたのだ。これが過去の「日本沈没」。

日本国憲法9条
1960年代の安保改定反対運動は日本がアメリカの属国になるなんて話以前に「日米軍事同盟化」による日本の将来を危惧したものだった。その後の極左の権力争いである学生運動よりも安保改定反対の運動は単純明快だったのだ。
ところが2003年になって政治家は何のためらいもなく「日米同盟」を口にする。一部には「日米軍事同盟」と言ってはばからない者も居る。この言葉にマスコミも無神経だ。60年代の安保闘争はなんだったのか。日本が日本として自立するためにはアメリカの軍事力の傘の下に入るのは駄目だ、自立しようって運動では無かったのか。それが訳の解らない「平和憲法擁護」の運動だったりした面は有ったが、大局的な大きな流れは「日本自立」であったと思う。その「自立」問題の中で憲法も自衛隊も語れば良かったのだ。この件では必ずしも僕は「先人の責任を問う」とは言い切れない。自らの責任も問われる年代である。
ただ当時の日本憲法の解釈の歪み(戦争放棄憲法と教えられた)から60年代の安保闘争が軍事を忌避していた面は勉強不足と言うか国としての自立に幼稚であったと思う。これは村山政権が発足する1990年代まで時間を要してしまったのだから。
今になって声だかに「憲法9条は自衛権まで放棄していない」と語られてもなぁと思うのである。憲法9条を「戦争放棄」と読んでしまうことも問題だし「軍隊放棄」と読んでしまうことも問題なのだった(あえて過去形)。
そして、国としての意思決定が国民よりもアメリカの意向によって決まる国家に「沈没」してしまったのだ。もっと60年代に議論しておけば良かったと今思っても空しいのだろうか。
 ちなみに憲法9条の条文は以下のようである。
9条
(1) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
小泉首相のアメリカを支持するだとか、国連決議を支持するだとかの発言は上記憲法に違反しているのだ。「交戦権」は認めないと言ってるのだから。
また、文面に「陸海空」とあるが、先の太平洋戦争で日本は空軍を持たなかった。その意味で文面に押し付けたアメリカの文言が刻まれているのだろう。
 この憲法と引き換えに国体護持を得たのだが、その選択が日本を沈没させてしまって今年で58年になるのだ。戦争の後遺症完治にはあと50年くらいかかるのだろうか。(その前に日本国土が物理的に沈没したりして。北朝鮮、日本州とかに)

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2003.07.20 Mint