情報教育が確立していない日本の現状

長崎県佐世保での事件は教育の責任
 今回の佐世保の小学校での事件で、またもやインターネットの功罪が議論されることになった。基本的にインターネットの功罪では無くて、アルビン・トフラーの「第三の波」に著されているような情報化社会が現実のものになっているってことだろう。
 この情報化時代に教育が無頓着と言うか時代の変化に対応できない教育の現状こそが責められるべきだろう。情報教育が確立していない現在の教育制度で刑事事件に繋がらないまでも、多くの学生が解決策を見出せなくて苦悩している。
 携帯電話の迷惑メールとか表面化している事象は後追いで、実際には様々な社会現象がインターネットの普及とともに起きている。
その方向を見るのに最適なのは現在の2チャンネルだろう。昔の2チャンネルは電子掲示板であった。情報が書込まれる頻度も考察を加えてアップロードされていた。そのため、読み応えがあった。現在の2チャンネルは骨髄反射のチャット化している。何か事件があると上限の1000メッセージまでに数時間で到達してしまう。
 更に加えるとその1000メッセージの半分は意味も無いボケやツッコミの骨髄反射的チャット感覚の書込みだ。「昔は良かった」などと言うつもりは全然無いが、道具であるインターネットは使い手によっていかようにも変化するってことだろう。2チャンネルも使い手によって変遷してきた。ただ、低年齢化によって書込まれる情報の価値が低くなっているのは現実だろう。
 1985年の通信自由化によってパソコン通信の時代が始まった。これは一部の特権階級と言うか商業的な魅力を得た掲示板が盛んになった時代。ま、この時代にネットワーク社会の勉強を始めた自分としては、その社会の掟と矛盾については従分理解しているつもりだ。でも「パソコン通信」の名称のように、一部の、20万円以上する高価なパソコンを利用出来る一部の情報化社会に異常に関心のある人々の世界であった。詳しくはPC−VAN博物館に痕跡があるが、一部の特化した人々のネットワークだった時代だ。
 調査によると30代都市生活者男性ってのが全体の80%を占めていた。ちなみに僕は若干この枠を上側に越えるのだけれど、ま、主催者だったのでしょうがないのかな。
 その15年も前から教育と情報化社会に熱心な一部の人々が会議室を設けて議論をしていた。ただ、残念なことに目線は自分に焦点がありパソコンを使うノウハウに終始し、受ける側の生徒や児童に対する考察はほどんど無かった。いわゆるパソコンに詳しい浮いた先生達の情報交換の場でしかなかった。
 やがて、それが例えば西鉄バスハイジャックへと繋がる情報化社会への対応って感覚に発展するのだが、当時参加している教師にはその意識は無かった。その15年前のメンバーは今回の事件をどのように見ているのか是非とも意見を聞きたいものだ。

西鉄バス、ハイジャック事件
 正確にはバスジャックなのだろうが、日本的用語なのでバス、ハイジャックと書いておこう。これは2000年に起きた事件だが情報化社会と密接に関連してるのだが、この視点で書かれた報道は皆無だ。
 事件は些細な事から発したと思われる。憶測の域は出ないが犯罪を行った当事者が2チャンネルに書込みを行ってから犯行に及んでいる。しかも、その動機は2チャンネルで積み重なる書込み番号の1000番のメッセージを書込めなかったこと。
当時の経緯はパソコンを代えたときに消えてしまったのだが、2チャンネルで「1000番書込みは俺が取る」のを宣言して朝の6時頃だと思うが1000番直前に「あと一つか」みたいな余裕の書込みをしてた。で、実際には999番を見届けた誰かが「1000番いただき、けけけけ」で1000番をさらっていた。それで目立ちたがりの引きこもり青年であった少年はより目立つバスジャックに方針を変えたってのが、この事件の背景にある。
 実は当時「ネオむぎ茶」の動きは徹夜でテレビ報道を見ながらインターネットで追っていた。2チャンネルで「こいつが犯人じゃないの」の情報が流れたのは事件発生の6時間後の18時頃だった。これから12時間後に警察突入となるのだ。
 この事件を踏まえて、情報化社会進展における教育のあり方を議論すべきであった。子供は友人関係で精神的に傷つくだけでなくネットワークの中でも傷つくってことを考慮すべきだった。そもそも当時の2チャンネルでは「厨房、消防」と高校生が主体で中学生、小学生を罵倒するを雰囲気はあった。逆に今では主流なので罵倒の対象にはなっていないようだが。

子供が接する情報は昔と比較にならない。
 うーん、実はこの項目については内部告発的なのだが、現在の教育者育成制度は全然間違っていると思う。文部科学省の考える教育制度の欠陥は上げるときりが無いが、高度成長時代の昭和30年代から一歩も社会に合わせて改革していない。
 集団就職の労働力生産が教育の目標だった時代と今の教育は何も変わっていない。読み書きソロバンの教育が太平洋戦争が終わってからの教育改革後60年も続いている。もっと教えなくてはならないことが有るだろうに、アメリカの文化伝承に驚くことに社会党系の日教組や北海道の北教組は従ってきた。亡くなった坂井三郎さんの著書の「大空のサムライ」にもあるが、日本は内燃機関の構造から説明しなくてはならない時代だった。つまり、エンジンなんてのは軍隊に入って初めて接する高度技術だった時代なのだ。
 振り返って考えてもらいたい、テレビが普及して東京オリンピックをカラーで受信する時代に教育は変わっただろうか。アポロ11号が月面着陸をする時に教育は変わっただろうか。もっと言えば浅間山荘事件が生中継される時代に教育は変わっただろうか。
 答えは「何の変化も無い」だろう。情報化社会の到来にも関わらず、教育の項目に情報化が無い。そして、江戸時代のように歴史教育だけが形成されてる。これでは教育では無いだろう。時代を後ろに引き戻す過去の学問が現場で行われてる。その理解が今回の佐世保事件ではないかと思う。

情報化社会に向けて伝えたい事
 情報化社会ってのは単にパソコンが使えるってことでは無い。僕が何故、仕事の合間に割に会わない時間を割いて大学で非常勤講師をやっているかと言えば、パソコン教室のような現在のしかも最高学府での教育に疑問を感じるからだ。
 大学の情報教育がパソコン学級になっている現状を文部科学省はどのように考えているのか。基本的に戸惑っているだけだろう。そもそも情報教育ってパソコンの使い方でお茶を濁す学問では無いだろう。情報とは何かを先のアルビントフラーの第三の波にあるように経済の原動力の資源として考えなくてはいけない時代なのに、パソコンが使えるのが「情報教育」なのだって本末転倒以前の大学の体制整備の遅れ。これが、社会問題化してきたのが先の事件だろう。
 メールで始末しないで面談せよって会社も外国に多い。電子メールの弊害は便利さを上回っているって指摘もある。
 小学生が簡単にBBSを設置出来る現代社会で、チャットもBBSも知らない教室担任に状況把握が出来るのか。まさに「情報化社会」に不勉強であった教育の問題点がここにきてあらわになっている。やはりアルビントフラーの難解な第三の波はすごいと思う。この時代にあらわれる社会事象を指摘している。
 今一度、人間は社会的集団である。その集団はコミュニケーションにより成り立っているって事実を踏まえ、コミュニケーションはいかにあるべきかを教育する、読み書きソロバンに匹敵する本当の情報処理教育を考えてもらいたい。
 僕は非力だがパソコン教室化している現在の大学の「情報処理教育」を改善している。ほとんどの学生は武器の使い方しか習わない。武器は何故必要なのか、それを使う正当性は我にあるのか、それと同じだ、パソコンの必要な意味すら教えていないパソコン教室化した情報処理教育に文部科学省は税金を投入している。それも、情報処理が解らない故の無駄使いだ。
 古風な言い方だが、情報処理教育は学会でも利権でも無い。手習い、躾が情報処理教育だ。それが解る人間は官僚にも少ないし、現場にも少ない。情報処理教育は文化伝承だ、使う道具の変遷はあっても伝えるものは普遍だ。それが分かっていない官僚によって税金は「公的パソコン教室」に浪費される。馬ッ鹿みたい。

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2004.06.10 Mint