北海道の文化>地方には専門家教育は馴染まない
教育とITの地域ギャップは凄まじい
もう、この国の政府は憲法すら守れない腐った自民党に支配され、官僚天国のまま滅び行くのだろうか。そもそも、官僚天国現象は明治維新にまで溯ることになる。
近代国家を目指す日本は立憲君主制を目指して政党による民主的な政治を目指したのだが、立法と行政が分離していない制度のまま現在まで来た。そのため議員内閣制によって政治家は立法府と行政府の両方を担うことになる。しかし、両睨みが巧く伊能せず、日本に官僚天下がはびこる原因になった。既に120年も前からこの制度欠陥は改まらない。
政治家は「次回当選すること」を考えて、選挙区の利益誘導に走り、国家の運営たる行政を無いがしろにし、そして、官僚天国国家を結果として築いてしまった。その責任は戦後で言えば歴代の自民党政権にある。発端は、明治政府にまで溯らなければならないが。
日本の行政の欠陥は、あいも変わらず中央集権にある。
昭和30年代の集団就職に代表されるように、東京に行けば何とかなる的な、人口の都市集中に対する国策がまるで考えられていない。一極集中のほうが経済効率が良いのは自明だが、その弊害が国土全体に及ぼす影響も無視できない。憲法の「均衡有る国土の発展」が守られないのだから。
地方は都市への人材供給地でしか無く、1極集中の是非が立法府である国会で論議されることも無い。ただ、東京を目指すことが地方の目標になってしまった。
特にIT分野において顕著なのはブロードバンド環境に触れることが無い地方が、インターネットを利用したビジネスの可能性にすら接する機会を奪われている現状だろう。E−JAPAN計画が地方に何をもたらしたかと言えば何も無い。ただ、総務省の落下傘的ピンポイントな公共事業しか無い。実際、地方の若者はインターネットによるビジネスチャンスから隔離されているのだ。
これが「均衡有る国土の繁栄」の憲法にどれだけ違憲なのか、東京に住む議員は考えたことがあるのか。生まれた土地によりハンディキャップを背負わなければならない若者が存在する現状をどれだけの「議員さん」は気が付いているのか。
マーケット規模の「数の論理」は通用しない
ま、やれやれな施策なのだが、北海道でも起業なんてキーワードで官庁が頑張っている。まったく笑い話なのは、役人が起業に関与できるって誤解。そもそも、民間事業なのに、公務員がそれを育てたり育成したり出来るのか、って基本的問題点に誰も異を唱えない。
市場規模って視点が全然無いのだから、民間が役所に躍らされておいそれと手を染められないのだ。東京で起きた事業が先駆的で北海道でも実現可能だと思い込むのは勝手だが、それに助成措置をしても市場原理の基本が解ってない役人には仕事作りのアリバイ作りだろう。
市場規模を考えてみよう。東京で成功した新事業が北海道で成功するには市場規模対比が不可欠だ。東京の人口を考えると、例えば札幌で事業になるためには東京で10人で営業可能な事業規模が必要だ。東京1200万人、札幌180万人。まして、地方都市である帯広市程度の人口規模で比べると、東京100人の会社が帯広市で1人がかろうじて食える事業規模だ。そんな、市場規模の比較が出来なくて、トレンドばかり追っては当事者にとって迷惑な話だ。
東京で100人規模の事業所が、なんとか北海道で企業として存続可能なのだ。そんな事業って東京でも実はほとんど無いって事実を認識しなければいけない。
例えば広域で人口密度の少ない北海道で無線LAN事業を展開した会社が有った(あえて、過去形)。たしかに人口密度の少ない地方ではインフラ整備効率が悪いので有線系のプロバイダは営業して来ない。そこに取り残される地域住民にとって無線LANによる廉価な(実際は、都市部の光より利用料金は高いのだが)ブロードバンドは魅力的だって事業計画は書ける。しかし、ADSLも来ない地方の人口規模は数千世帯だ。人口1万人にも満たない。先の逆算を利用すれば、東京で1200人の従業員規模の業種で始めて1人が食えるマーケット規模なのだ。だから、事業が成功するには、無線の回線のみの専門事業では駄目なのだ。
地方には「専門家」よりも「全門家」が必要
日本の教育は諸外国に向かっての競争力を強化するための「専門家」を育てる教育でだった。専門家とは単純に言って「狭く深い学者」である。その専門家が飯を食っていくためには「0.5の仕事」では無く、一人分の仕事が欲しい。それが、専門家が都市に集中する結果となった。そもそも、専門馬鹿に近い専門家が食って行けるマーケットは需要が多くなければ存在できないのだから、東京に出ないと食えない。
で、考えるのだけれど、地方で専門家を育てる教育機関の存在は地方のためになっているのだろうか? 地方の特に高等教育(大学相当)はジャンジャン専門教育して東京に送り込む存在でしか無いのでは?
全国一律の教育制度が東京基準な例がここにも散見される。地方の高等教育は東京に向かって人材を発射する打ち上げ台だ。別な表現をすれば地方から出て行く人材を一生懸命育てている、地方には迷惑な組織が地方の高等教育機関なのだ。
地方の事業規模は小さい。だから、専門家はせめて1人食えるためには人口の多い地域に集中せざるを得ない。地方に弁護士不在の土地が多いのは、弁護士1人を食わせるだけの事案が無いから。同じように専門家をいくら育てても地方に専門家を食わせるだけの需要が無い。だから、高等教育を受けた若者は都市に集まってくる。
本末転倒なのだ。地方を過疎化する高等教育。これを地方のために生かせる教育に変えなければ地方は益々過疎化する。
実は専門家が食える地域を作る無駄な努力が地方では行われてる。本来、地方の規模に応じた専門家育成が必要だと考えている人は少ない。
つまり、都市では「自転車屋」であれば地方では「自転車屋&介護用品車椅子」とか、都市での「野菜屋」が「食料品店」とか。地方には今はやりのコラボレーションが必要になる。そのための専門家では無くて複数の事案に対応できる全門家が必要になる。それが地方の高等教育に求められるのだが、それを意識した教育は何処にも存在しない。
全門家育成のカリキュラム
事は単純だと思う。現在の若者教育中心から生涯教育へ。現在の同好会的生涯教育をもっと価値ある教育へってことだ。
これは僕が前から述べているアメリカのコミュニティカレッジに通じる。アメリカのコミュニティカレッジは地方自治体が行う教育カリキュラムで半分は遊びのカルチャー教室だが残りの半分は単位認定を伴う専門教育だ。例えば町に製鉄所があるとして、そこの高炉の監督がリタイアすると招かれてコミュニティカレッジの先生になる。生徒は同じ職場の後輩で、先輩のノウハウを一から学ぶ。OJT(オンザジョブトレーニング)が弱いアメリカでは積極的にOBを利用して技術の伝承を図っているのだ。
そこから生まれる「生徒」は先生を越えるものでは無い。しかし、多くの先生に接して広く知識を得ることができる。
翻って日本の高等教育を見ると専門馬鹿しか教える人間が居ない。そんな中では専門馬鹿しか育たない。浅いが広い知識を得る場が整備されてないのだ。だから、アメリカのコミュニティカレッジに学ぶことは多いのだが、今の文部科学省では「私学」もしくは「カルチャーセンター」的な生涯教育以外を制度導入する気は無いようだ。
既存の既得権益を離れて、国家を論じる官僚なんて居ない証左だろう。政治家がはしゃいでいる「教育基本法改革」も結局は官僚主導の教育既得権養護制度の整備でしか無い。
本当に「教育」を考えるのならば、先に述べたように既得権益の有る学業教育にのみ限ることなく、国家100年の大計を踏まえるべきだが、それは期待できない。
地方を過疎に導いたのは、一律的全国共通の高等教育にこそ諸悪の根源があるのだと着目して考えてみると良い。結局、官僚支配制度は一極集中を招いたってことが個別の事象から見えてくる。