教育基本法改正、愛国心は不毛な議論
愛国心は言葉遊び
まず、教育の現状を把握することが大切だろう。何故、教育基本法の改正なのか、その道筋を国民に示すのが先だ。「愛国心」の取り扱いに終始して、教育基本法の改正が目的で、その改正によって何が見えてくるのか、まったく説明されていない。
教育基本法を何故改定するかの説明は与党検討会の座長として改正案を取りまとめた大島理森元文相の話がわかりやすい。http://www.daily-tohoku.co.jp/news/2006/04/28/new06042802.htm(現在は非掲載)大島理森元文相の談話。ただ、ニュースは掲載終了の場合が多いので、リンクだけでなく意訳しておく。
1.制定から60年を経て、社会の環境が変わってきた。制定当時は戦争の反省に立脚して個人の尊重に重点を置いてきた。
2.「公共」「伝統の継承」を教育に取り組む改定を行った。
3.「愛国心」については「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」としてまとめ、国の概念に統治組織を含まないように配慮した。
とのことだ。
教育基本法では国(行政府)が行うことを明示してるので「国は」って言葉が多用されてる。その「国」と愛国心で書かれた「国」を分別するために「わが国」に置き換えても説得力に欠ける気がするが。
で、教育基本法改定のインセンティブ(動機付け)には現状の実態、問題点、課題にはまったく触れられていない。ただ、「古くなったからぁ」では全然説得力が無い。
もっとも、古いものの定期的な見直しは常に必要だが、基本法からアプローチして一気に教育を改革するってのは、ゴールが定かでない問題に対して危険なアプロチではないだろうか。
教育基本法を改定しても何も改善しない
教育基本法に「愛国心」を明記すると何が変わるのか。結局、何も変わらないだろう。立法府の立法遊びでしか無い。今、教育の現場に求められる事は何かを60年間を振り返って、実態と有るべき姿の乖離に着目し、その原因を解決していくプロセスを踏むのが筋なのに、それでは手間がかかるのでお題目だけ直して立法府の責任を果たしたような気になるのはいかがなものか。
歴史を紐解いてみると解る。1960〜70年代の学生運動の華やかになった理由。それは戦後の「個」を尊重した教育が花咲いた時期と言える。隣の韓国で光州事件が起きた時期、同じく中国で天安門事件が起きた時期、その時期と「個」を尊重した教育が密接に連動している。
60年の安保闘争以降、学生運動は大学改革に向かうが、これを受けての大学側の対応が煮えきらず、当時の佐藤栄作首相は強権を持って大学の鎮圧を目指した。そに姿勢は国民の批判を浴び国民世論も学生側に味方し、機動隊や自衛隊は悪の手先みたいな扱いを受けた。
当時、機動隊を指揮していたのが後に「あさま山荘事件」で実質的に指揮をとる佐々淳行氏だ。
強権を発動し大学に機動隊を入れバリケード封鎖を解除し授業を正常に戻した結果、追い詰められた一部のセクトは地下に潜り爆弾闘争と銃闘争が合体した連合赤軍を生んだ。そして「あさま山荘事件」につながる。この頃までは世論の支持は過激な闘争を繰り返すけれども学生側にあった。事件後の調査で「総括」による同士討ちの情報が流れると世論は一変し、学生運動は急速に下火になるとともに新しい学生は運動に参加しなくなった。
とまぁ、だらだらと1970年代のことを書いたが、結局、大学はひとつも変わらなかったのだ。巧緻な佐藤栄作首相にしても根にある教育の改革には手を染めなかった。何故なら、自治独立の自己責任を剥奪するまで教育現場と戦うのは意味が無いと考えたのだろう。要は、運営が正常になれば良いのであって、大学改革は大学自身の自己責任と考えたのだろう。
愛国心があればよい国になるのか
どうも次期総裁選挙に出馬するらしい安倍晋三氏なんかが「愛国心の欠如が社会を悪くしている」なんて一方的に言っているが、では愛国心があれば社会が良くなるのかと聞きたい。あまりにも心情的で、ああ、この人に総理大臣やらせたら感情的な判断ばかりで論理的判断は出来ないだろうなぁと思ってしまう。
問題は教育の現場で起こっていることを踏まえていない感情論は避けたいってことだ。教育は難しいのは百も承知だが、現在の小学校の担任制には疑問がある。
児童は先生を選べない、先生の能力は千差万別だ。過去の「個」を尊重した教育でも社会主義イデオロギーを持った先生が「イデオロギー教育」を行った結果、左側に居るのが正しいって認識を植えつけてしまった。
個々の先生の個性や能力が個々の児童や生徒(国民)に有利、不利を招いているから学力を付けるには塾って風潮になる。小学校、中学校の先生が授業だけで十分と胸を張って言える人が何人いるか。
大学ですらダブルスクールでないと公務員試験に受からないってんで塾通いする。そんな教育の現場は変だと思いませんか?
組合対策が面倒でなぁなぁで済ませる管理者、世間知らずの組合のやりたい放題。教職員には資質以前に権力があるのであからさまに不備を指摘が出来ない父母父兄。このような連鎖が国民の権利である教育を蝕んでいる。
愛国心が必要なのは現場で教わる児童生徒では無く、教えている側の教職員側なのだ。国民を育てる責任を感じてもらいたい。国を育てているって自覚を持って欲しい。それが愛国心だろう。教室に篭っているだけでは良い国民を作れない、民間に出て将来学生や生徒が活動するフィールドをしっかり把握してもらいたい。その「愛国心」を持ってもらいたい。
「公」を尊重する心って表現で十分
先の座長談話にあるように「個」を尊重する教育基本法が60年を経て実情に合わなくなった(僕は、そうは思わないが)のなら、「個」に対する反意語は「公」だろう。何故「国」なのかよく解らん。
アメリカの愛国心は国に対する忠誠だ。徴兵制度がある国では戦争に行ってもらわなければならない。そのよりどころにするために愛国心の表明は国に対する忠誠を誓った者に与えられる賞賛って文化土壌を作っている。
日本は徴兵制が無い。誰も「戦争に行って死んで来い」とは言えない。それが諸外国と同じ「愛国心」を持てってのは無理があるだろう。つまり「国家への忠誠」は暗黙の了解事項ではあるが、明文化するものでは無い。その代わりに「公」の尊重を挙げたら良い。
ただ、考えてみると「個」の尊重の教育で60年やれたのだから、なにも「公」の尊重に舵を切り替えなくても良い気がする。あえて言えば「公」の尊重に舵を切るべき時は佐藤栄作首相の時代だった。だが、狡猾な佐藤栄作首相は「個」の尊重が国民の支持を得ていると判断したのだろう。だから波風立てなかった。
教育は紆余曲折を経ながら政策の土俵としてははなはだ試行の面が強い。結果が見えてくるのに時間がかかる。そもそも政策決定により今が位置づけられると判断の難しい分野だ。国家100年の大計に立てば、教育くらい政治の主導権を発揮出来ない分野も無いだろう。何故に、その無意味な政治課題に全力を挙げて取り組むのか。
暇つぶし揶揄されてもしかたがないだろう。
民主党も教育基本改正に賛成のようだが与党案にたいして対案を出すとのこと。1月に小泉純一郎首相が踏んではいけないトラの尾である皇室典範を踏んだことを教訓にすれば、ここは教育基本法の改定になんの意義も感じないのだが。