平和運動の夏
暑い8月の訪れとともに原水爆の反対運動、そして終戦記念日へと続く日本の平和運動の原点の日々が続く。
われわれの世代(記者は50代なかば)には、熱く長い日本の平和運動の季節がまた巡ってきたとの感慨が深い。
「戦争とは何か」を研究してこそ、平和運動は重みと厚みを持つのではないか。
この62年間で、日本の平和運動はどこが変わっただろうか。すべてに携わっているわけでもないし、年齢的にも「戦争を知らない」と思われている世代ではあるが、最近の平和運動は良く言えば多様性が見られるようになったと思っている。悪く言えば、お門違いの「嫌戦争流」も、平和運動のジャンルに網羅されているようだ。単なるイデオロギーを平和運動のジャンルに入れても良いのかとの疑問を最近感じている。
先に「戦争を知らないと思われている」と書いたが、実際には日本が関与した戦争は、常に世界のどこかで起こっている。
高校生の修学旅行のとき、「10.21国際反戦デー」(昭和43年)の宿泊地が東京となった。当日は夜間行動が制限され、新宿方面への自由行動は禁止になった。われわれは「おのぼりさん」よろしく東京タワーで夜景を見物することにした。
かねてから英語の教師に「外国人と英語で話す機会が東京なら多い」と言われていたので、つたない英語でアメリカ人観光客と思える青年に話しかけた。どこから来たのかと聞いたのだが、その内容には戦争があった。
ベトナムから来て1週間ほど滞在し、またベトナムに戻るとのこと。ベトナム戦争の兵士の短い休暇だったのだ。
それを聞いたとき、何も言えなかった。戦争を「体験」した瞬間でもあった。実際に生死をかけて戦っている兵士に出会った最初の体験でもあった。
平和は勝ち取るものでなければ持続しない
平和は「勝ち取るもの」
昨今の平和運動家と称せられる人々の言動に、戦争とはどんなものなのかを理解せず、平和のためには戦争に反対するのが良いという程度の意見を耳にすることが多い。例えば、自衛隊がグアムにおいて米軍と共同で爆撃訓練を行ったことに関して、通常の訓練の範疇にも係わらず「ニューヨークタイムズにも北朝鮮を爆撃する訓練になると書かれてる」と意見を述べたりもしている。
自衛隊の訓練への過敏反応で、自衛隊は自衛隊として担うべき責務を行なっているだけなのだ。そもそも、北朝鮮にまで飛べる航続距離を戦闘爆撃機は持っていない。
兵力を維持するために訓練の必要性を理解すれば、自衛隊が自衛隊として訓練をしている事象を戦争行為とは呼べないだろう。
共産党宣言の中に「すべての権利は勝ち取られたものである」という一節がある。まさに、平和は「勝ち取らなければ」実現しないのだ。だから、平和運動は闘争である。しかし、現実を見ると、「武力行使をしないことが平和運動だ」と勘違いをしている「多様な平和運動」が増えていないだろうか。
平和は「勝ち取るもの」である。そのために「武力とは何か」、「外交とは何か」、そして「戦争とは何か」を研究してこそ、平和運動は重みと厚みを持つ。その姿勢は「嫌戦争流」で省略されているのでは説得力のある平和運動にはなりえない。
8月の暑い夏、『日本のいちばん長い日』(半藤一利著)あたりから書物を紐解かれるのもよろしいかと思う。夏休みを利用して図書館で関連図書を借りて一読してはどうだろうか。
ドイツの宰相ビスマルクも言っている。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」