終戦は昭和20年6月に決まっていた
「日本の一番長い日」が僕の歴史観
 「日本の一番長い日」と言えば著者「大宅壮一」となって世に出たが、実は半藤一利氏が文藝春秋社員の時に書き上げた。本人名で出版されたのは1995年に再出版された時。
 この中で、ポツダム宣言受諾の是非について御前会議が繰り返され、一部の軍部の徹底抗戦論のドキュメンタリーが8月14日正午から8月15日正午まで描かれている。映画化もされ、どちらかと言うとポツダム宣言受諾に至る日本の流れ、敗戦を決定した歴史的一日って歴史観を持たせる内容だ。
 先日、福岡政行氏の講演会で「5月25日の米軍の爆撃で宮城(皇居)の一部が焼失し、京都と宮城(皇居)は爆撃しないとの米軍の方針が変わったことを感じた昭和天皇は母親に疎開を進めるが拒否されたので、御前会議を招集して終戦の準備を指示した」との内容。これには事実誤認(後述)もあるのだが「日本の一番長い日」しか知らない身としては新事実に聞こえた。
 そもそも、広島や長崎に原子爆弾が落とされて銃後も安泰では無いと悟った昭和天皇が終戦を決断したってのが僕のそれまでの歴史観で、ポツダム宣言を黙殺(アメリカ側解釈は拒否)していた日本が急に終戦に向かったのは原子爆弾の影響が大きいと考えていたのだ。
 現在は便利な時代で図書館で調べなくてもインタネを検索すると真偽は別にして様々な情報が入手できる。真偽は複数の人もそのように書いているかによって確かめられる。その結果、福岡政行氏の推測は必ずしも間違っていないって、僕にとっての新しい歴史観を得ることができた。
 半藤一利氏が描く8月14日正午から8月15日正午までには6月からの日本の苦悩と決断を凝縮したもので、ドキュメンタリーとして1日で全てが決まった訳では無いって事と思う。


皇居炎上は歴史的事実
 昭和20年5月25日(24日夜半?)の東京空襲によって「大宮御所など炎上」は事実。この話は柳田邦夫氏の「ゼロ戦燃ゆ」にも記載されてる。この昭和20年5月って時期は同盟国のドイツのヒットラーが4月30日に自決し、5月7日にはドイツ陥落を向かえる。同盟国2国が敗戦し日本だけが残っていた時期になる。
 6月22日になって昭和天皇が終戦の発言を始める。この1ヶ月の間に何が有ったかはさすがに推測するしかない。先の福岡政行氏は「母親に疎開を進めたが拒否されたので」と推測してる。その件は後述するとして、福岡政行氏の述べる事実関係について少し調べてみる。「御前会議を招集して、終戦の指示をした」って述べているのだが、この個所が気になった。本来御前会議は天皇の臨席をあおぐ会議で召集するのは政府であり、昭和天皇自らが御前会議の開催を指示できたのだろうか。
近辺での御前会議は
6月8日の御前会議で「本土決戦方針の確認」
6月22日の御前会議で「終戦工作促進の確認」
8月9日御前会議(未明まで続く)で「国体護持を条件にポツダム宣言受諾」
8月14日の御前会議「ポツダム宣言受諾」
となっている資料が多い。
6月18日に木戸内大臣と昭和天皇による本土決戦回避、終戦交渉開始の指示ってのもある。
6月22日の御前会議開催の記録が有ったり無かったりする。
実際に天皇臨席で開かれた6月22日の会議は「最高戦争指導会議構成員会議」らしい。この時点で、昭和天皇から「終戦の準備」が指示されている。先の福岡政行氏の言っている「天皇が要請した御前会議」は実は「最高戦争指導会議構成員会議」と解釈される。そもそも「天皇が要請した御前会議」ってのは成立しないのだから。

何故、終戦の決断になったのか
 昭和20年2月に近衛文麿氏により天皇に上奏文が提出されている。(上奏文はここを参照)それに対して昭和天皇はやんわりと拒否している。その理由は軍部が勝ち戦を多少ともやらないと終戦には持ち込めないってものだった。
そして6月8日の御前会議で内大臣木戸幸一が「時局収拾対策試案」を提出しているが、この内容は昭和20年下期は物資が極端に不足し、人心をまとめ切れなくなるとの予想だった。
さて、振り返ってみると次の事柄が時系列になる。
5月25日宮城(皇居)に焼夷弾落下。一部を焼失。
6月8日の御前会議で木戸幸一より「時局収拾対策試案」提出。
6月22日に最高戦争指導会議構成員会議を昭和天皇が召集し、終戦準備を指示。
どうも、福岡政行氏の解釈は的を射てる気がする。母親の松代への疎開は本人が承諾せず、宮城(皇居)も戦火にまみれる。
そもそも、昭和天皇はアメリカから「京都と宮城(皇居)は直接狙うことはしない」との情報を得ていたふしがある。この情報は直接では無く、後述のようにドイツルートから入手していたのだろう。これに加えて、終戦の御前会議が8月14日に行われた時に国体護持に拘った阿南陸軍大臣に昭和天皇は「わたしは大丈夫だから」と述べている。また、その直後、席をはずした阿南陸軍大臣が席にもどると国体護持にこだわらない旨発言してる。
 ここに昭和天皇とアメリカとの何らかの、今度は直接の情報ルートがあったのではないかと推測されるのだ。
ところが、情報が途切れ途切れで実際に宮城(皇居)が焼夷弾に爆撃されて、先のドイツ経由のアメリカの極秘情報ルートが怪しくなり、5月7日のドイツ陥落で昭和天皇は情報面で孤立する。その中で年の後半には国家がもたないと言われて決断したのだろう。様々な要素が複合したと思われる。もちろん、一般の国民と違い、昭和天皇はラジオの短波放送を受信して情報を入手していた。その放送からの情報と軍部からの情報の食い違いに部下を信用できなかったと後年述べている。
 加えてアメリカからの直接情報ルートが有ったのだろう。



 情勢判断から推測するに、ドイツルートだった公算が高い。このドイツルートが5月7日に切れて、情報が入らなくなったのだろう。この情報ルートは6月中旬にはアメリカルートで再開された。そして6月26日には国際連合が発足する。だから、7月26日のポツダム宣言はいち早く昭和天皇に入っていたと思われる。さらに7月16日に成功した原子爆弾の情報も同時期、昭和天皇に入っていたと思われる。
 軍が入手出来ない情報でも昭和天皇は入手できたと考えるのは当然だろう。外務省や旧軍隊の記録に残らない情報ルートが昭和天皇にあって、それがある意味昭和天皇を動かしていた。それが、昭和20年2月から終戦の8月15日まで(いや、それ以降も)続いた情報戦だったのだろう。
 ドイツルートを手に入れたのはアメリカだと思われる。イギリスや旧ソ連が入手していれば、それなりに違った歴史になったかもしれない。そもそもポツダム宣言はポツダムで会談を行った米・英・ソとは違いアメリカ、英国、中華民国の3国による宣言だ。しかも、英国代表クレメント・アトリー、中華民国代表蒋介石はその場に不在でアメリカ大統領のトルーマンが3人分の署名を一人で行った。ある意味、全権委任に近い状態だったのは、アメリカが昭和天皇との情報ルートを握ってることを英、中国は知っていたし、ソ連には知らされてなかったと考えられる。
 アメリカの占領政策は逆ルートで昭和天皇からの進言があったのではないか。アメリカも日本の文化を理解できず、最高責任者を自分の中に置いておくことが得策と考えたのではないか。
 現代ではインタネを探せば真偽は別にして山ほど情報が手に入る。当時は情報ルートの確保が死命を決する訳で、昭和天皇がまったく軍部からの情報だけで動いていたとは考えられない。ただ、これは本人に聞くしかない無いので確認のしようが無いのだが。ただ短波放送の受信については公然の秘密として公開されている。
 先の福岡政行氏は「チャンスがあれば、現在の天皇に聞いてみたい」と言っていたが歴史には発掘出来る事実と発掘出来ない(闇に消えた)事実が交差するのもこれまた事実だ。

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2006.02.14 Mint