スポーツの基本を忘れて暴走するマスコミ

亀田大毅問題や時津風部屋疑惑
 サッカーのJ1開始当初の川渕チェアーマンが「日本の体育をスポーツにまで格上げしたくでJ1を作った」と話していたことがある。日本のスポーツは実際には学業の体育の延長で世界のスポーツと戦うまで精神土壌が高くない。プロスポーツマンであることを通じて、アマチュアの目標となる最上位の層を形成することにより体育からスポーツへ昇華して行きたいとの考え方だろう。
 そのプロスポーツ選手に手本となるべき自律性が感じられない事件が多発してる。
 亀田大毅問題は少なくとも世界チャンピオン戦である試合で行ってはいけない反則攻撃を繰り返し、最終ラウンドでは持ち上げて倒すなんてプロレス並みの反則を行った。1ラウンドで減点3は世界チャンピオンを賭けた試合で、あってはならない醜態だった。テレビ中継を観戦していたが最初からローブローでチャンピオン内藤大助のふとももを狙い足を止める作戦なのかと思ったが、結果は急所狙いのローブローだった。内藤大助チャンピオンが再三レフェリーにアピールしたがレフェリーがこれを認めず遺恨試合の様相を呈して試合は荒れたものになった。
 グローブでガードをしても、その隙間からチャンピオンの的確なパンチが入り、ポイントを重ねていく。結果、一発逆転狙い以外に亀田大毅選手に勝算は無く、最後の最後にプロレスになってしまった。
 時津風部屋疑惑は早い時期にインタネで問題視されていた。一部のインターネット・ニュースでも取り上げられたのだが、マスコミは当時は反応しなかった。
何度も部屋を抜け出して郷里に帰った若手力士を「かわいがる」と称して暴行していた事件だ。相撲部屋の暴力体質は予てから言われていたが、それが相撲の常識となってしまい、表面に出てくることが無かった。現在の相撲協会の役員を務めるメンバーに現役の力士時代に「かわいがる」に参加して暴力を振るわなかった役員が居るのだろうか。他人事では無く当事者として問題意識を持ってもらわないと、密室の仕来たりが続くと相撲部屋に入りたい若者が居なくなり大相撲が衰退するとの危機感を持ってもらいたい。

問題はマスコミの扱い方
 視聴率至上主義で露骨に数字を稼げれば何をやっても良いって風潮が今回も大手を振っている。
 スポーツの精神とは、試合中は勝利を目指して戦うが、試合が終わったら同じ競技を目指した者同士として相手を称えるものだ。まして、ボクシングのように街中で行ったら傷害罪で逮捕を免れないような危険なスポーツではルール厳守がそのスポーツを存続させる基本になる。時津風部屋疑惑は傷害致死罪での立件を視野に入れていると聞くが、亀田大毅問題も致死には至らないが傷害罪の対象になる行為だ。
 問題はマスコミが加担した、お膳立てした傷害罪ってことで該当する放送局は自身の問題としてチャンピオンに対処してもらいたい。
 あれだけ反則を繰り返したボクサーを育ててきたのは視聴率至上主義のマスコミなのだから。また、試合後の問題点を番組や記事にしてTBSを非難して視聴率を稼いでいるのもマスコミだ。そこにはスポーツとは本来こうで無ければならないみたいな薀蓄のある話は無く、攻撃に終始して視聴者の感情を代弁して視聴率を稼いでいるとしか思えない。世論をリードする(ま、これも大いなる誤解なのだが)姿勢が一切感じられない。
 時津風部屋疑惑については、所轄の文部科学省や相撲協会に不必要な配慮をして物事の原点に踏み込まず、時津風部屋のみを悪者にして叩いている。これも視聴率至上主義なマスコミが物事の本質論議よりも表面に出たセンセーショナルな事を追えば数字が稼げるって習慣から出ているのだろう。それは、マスコミに染み付いた誤解で何時か駆逐される崩壊への道なのだ。

一過性の報道が招いた悲劇の数々
 今回も前回の朝青龍騒動と同じく数週間過ぎるとマスコミの扱いも無くなって誰の記憶にも残らず、そして、また、同じ事が繰り返されるのだろう。視聴率を稼げない番組は「悪」であると思っているマスコミの態度が国民をどんどんミスリードしていく。古くはオウム事件のサリン騒動で被害者を加害者のように扱い、オウムから目を逸らさせたミスリード。6月に起きた時津風部屋疑惑をまったく報道せず、警察が動き始めると連日報道する姿勢。ミャンマー軍事政権の反政府デモ鎮圧の撮影中死亡した長井健司記者についての情報のフォローの無さ。
 おかしな話だが新聞や週刊誌は読んで捨てるもの放送は垂れ流し、つねに消費される情報を放り込まなければ成り立たないのかもしれない。テンポが速いと言うより常に放り込まないと成り立たない仕組みになっているのだろう。それは、今ほど情報通信ネットワークやインターネットが発達した時代の宿命かもしれない。
個人がパソコンを使って現地の情報を入手できる時代と競争するために、マスコミは情報の大量消費を余儀なくされる。しかし、決定的なのはマスコミは垂れ流ししか経験してないので膨大に永遠にコンテンツが蓄積がされ積み上がるインターネットの本当の怖さを判っていない点にある。

一過性の報道から蓄積報道へ
 今回の亀田事件もインターネットでの検索件数が多く、皆、自分の手で各方面からの情報を集めていた。放送時間や発行時間が決まった既存のマスメディアの報道を待つのでは無く、リアルタイムに情報入手が出来るメディアを使いこなしている。
 既存の放送局の「ニュース的なバラエティ」は先が無いだろう。いや、「ニュ−ス的な」の部分を取り払うことにより放送の価値が生まれてくる。硬派なジャーナリズムとバラエティを棲み分けないと価値の低下を招きかねない。
新聞や週刊誌は10月からインターネット配信に力を入れているが、まさに、これが自分たちの未来を形成していくだろう。紙媒体がネット媒体に変わるのは必然なのだから。そして、それが蓄積されることにより、相互利用が進み、より深い真実にローコストでたどり着ける。全ては「回りまわってみんな我が為」。

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2007.10.17 Mint